◆ ロマ書の学び(162)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年一〇月一五日号
         ▽ み言葉に生きる


 牧師は立場上、全体をイエス・キリストの姿に立ち上げるということでクリスチャン一人一人がコオディネイトされるように、しっかり組み合わされるように注文を出すわけである。皆さんの働き、奉仕、あるいは伝道活動が各自自分の勝手でパァーっと飛び出して行ったり、他の方向へ行くとしたならば、全然まとまらなくなってしまう。足は東京へ行きたい、手は北海道へ行きたい、頭は九州へ行きたいといったらどうなるだろうか?ばらばらになってしまい、分裂してしまう。

 やはり教会全体がイエス様のご命令に従って、全世界に出て行くという大命令に従わなければいけない。教会の使命は宣教であり、さらに教育という使命であり、また実際に集まって来た人達に対するカウンセリングであり、助言である。牧師は皆さん方一人一人の生活を大体把握しておかなければならないわけである。この教会はいろいろな規則がある厳しい教会と思うかも知れない。でもこの教会はずいぶん緩(ゆる)い教会だと思う。他の教会では、無断で欠席すると始末書を書かされるとか。バプテスト教会においてだ。無断欠席のほかにも、どこか別のところへ行ったとなるとやはり懲罰されることがあるらしい。

 私達はそういうことをしない。むしろ皆さん一人一人の自由な意志と、神様を愛する愛の結果の奉仕を重んじている。そして教会は全体が一つのキリストの身体としての働きをするために、コオディネイトされ、キリストの御名(みな)をあがめる。同時にその一部分である私達は、全ての事が相働いて、私の益になっているのだということを知る。

 皆さんがこれまでの生涯の中で経験してきた様々な辛いこと、痛みの経験、そうしたことに対して私達は詩篇からも読むことができる。

われ苦しまざる前(さき)には迷(まよ)い出(い)でぬ。されど今はわれ聖言(みことば)をまもる。=@  

   詩篇一〇九篇六七節

困苦(くるしみ)にあひたりしは我によきことなり。比(これ)によりて我なんぢの律法(おきて)をまなびえたり。

   詩篇一一九篇七一節

 私達は神様によって召しだされた者である。召しだされて、そして救いを頂いた者である。ロマ書八章二九節においては、私達が目指すゴール、自分達が目指すところは、イエス・キリストのお姿に似るようになる、ということだとわかる。

神を愛する者、すなはち御旨(みむね)によりて召されたる者の 為には、凡(すべて)のこと相(あい)働きて益となるを我らは知る。

   ロマ書八章二八節
 


◎ 暗誦聖句 テサロニケ前書三章一〇節前半
我らは夜昼祈りて、汝らの顔を見んことと

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