◆ ロマ書の学び(166)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年一一月一二日号
         ▽ み言葉に生きる

 

されば、これらのことにつきて何をか言わん、神もし 我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや。=@                    ロマ書八章三一節

 神様が私たちの味方をしてくださるならば、誰が私たちに敵対することが出来るだろうか。今回の学びの中心ポイントは、三一節後半である。

 ロマ書の中心的なテーマの第一は、信仰の歩み、信仰によって神様に受け入れられるという「信仰義認」の教理である。新約聖書の中で信仰について書いている書簡は他にもある。例えばヘブル書(一一・六)である。

信仰なくしては神に悦(よろこ)ばるること能(あた)わず、そは神 に来(きた)る者は、神の在(いま)すことと神の己(おのれ)を求むる者に報 い給うこととを、必ず信ずべければなり。=@ 

 ロマ書のテーマは、第一に「信仰義認」、第二に、イエス・キリストを信じる者がこの地上において日毎にイエス様のお姿に似る者と変えられていく(生活が聖められていく)過程の「聖化」、第三に、やがて天の御国において栄光の姿を与えられるという「栄化」である。ロマ書の柱であるこの「義認」「聖化」「栄化」について、しっかりと理解をしていただきたい。

 ロマ書一章一七節には、信仰による義人は生きる。≠ニいう大変有名なハバクク書の言葉が書かれている。
義人は信仰によりて生くべし。

 皆さんもよくご存知の、マルティン・ルーテル(最近はルターという表現が多い)は、かつてカトリックの修道僧であった。ルターは、毎日のように大寺院の階段を膝をついてのぼった、という。そのため、膝はすりむけ、出血した。痛みを我慢しながら、大聖堂の階段を膝であがっていく途中でこの信仰による義人は生くべし≠ニいう言葉にハッと胸をつかれた。

 「義人は信仰によって生きる≠ニいうことは、神様に認められ、受け入れられる人たちは、信仰によって生きなければいけない。何もこんな難行苦行をする必要はないのだ。」ということに気がつき、あの有名な宗教改革への発火点となっていく。私のよい行いや努力ではなくして、イエス・キリストの十字架を見上げることによって、自分の罪、汚れが消されてゆくのである。私が何か努力をすることによって、或は、戒律を守ることによって救われるのではない。

 神様が下さった方法(イエス様の十字架を、私の罪の身代わりとして仰ぎ見ること)によって、イエス様が流して下さった血潮の故に罪が清められることを彼は知った。「そうだ、私はこうした難行苦行をやめよう。ひたすら、イエス様の十字架を仰ぎ見て、信仰によって神様が下さるというその約束を心から受け入れよう。」こうして彼は、明確な回心をしたのだ。        (続く)


◎ 暗誦聖句  テサロニケ前書四章一一節
我らが前(さき)に命ぜしごとく力(つと)めて安静(しずか)にし、己(おのれ)の業(わざ)を なし、手づから働け。

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