◆ ロマ書の学び(167)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年一一月一九日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 私達、東洋に住む人間は、多くの場合、昔から伝えられてきた伝統的な宗教、或は、倫理、道徳観というものによって自分の生き方を守ってきたと思う。しかし、どんなに努力をしても、自分の良い行いによっては誰も救われない。しかし、イエス・キリストを信じるならば、東洋・西洋を問わず誰でも救われるのだ。

 以前、白井町の方で狂牛病の牛が一頭出た。そのため、その他何十頭もの牛が全部処分されたことがあった。狂牛病の疑いで殺された牛のために、周辺住民が何をしたか覚えておいでであろうか。白井町の農家を中心にして何件かの牧畜家が集まり、牛の供養のために墓石を作った。「たくさんの供物を供えて、皆、手を合わせて拝んだ」と新聞で報道された。これが、いわゆる日本人の「宗教感覚」ではないかと思う。

 或いは、女性の皆さんは、東京に針供養する所があるのをご存知だろう。お裁縫をする人は、針をよく使うため、針もよく折れる。その折れた針を供養するというのである。いろいろな形で日本人は、こういう「供養」や「拝む」ということをする。しかし、神様はこうした人間の「宗教儀式」であるとか、「戒律」、または「言い伝え」というものによって人は救われない、ということをはっきりとお教えになられたのである。

 私たちは苦しみを経験したり病気になると、どうしても何か、頼るべきもの、すがるべきものを求めていく。ある宗教の人々は、どこかに不幸があるというと、サッと駆けつけてきて、お手伝いをしたり、何か持ってきてくれ、すぐさま折伏(しゃくぶく)にかかってきたりする。私たちは、誰かが苦しんでいる時に、「今が伝道のチャンスだ。」という形で行くわけではない。私たちは心からの本当の愛をもってイエス様の救いをお伝えしたいと願っている。

 イエス様を信じる皆さんが証をなさる時に、誰かをイエス様に導かなければ自分が救われない、と考えてはいけない。私たちは誰かを折伏するとか導くことによって、自分の先祖の一人あるいは二人と、他の人々が「救われる」ためにやっているのでもない。なぜなら、救いは、あくまでも個人個人の問題であるからである。私たちは、すでに亡くなった人たちを地獄の滅びから救いあげることは出来ない。今自分に課せられた課題は、「私は神様が下さったイエス・キリストをどう扱うか」、「イエス様を拒むか、それともイエス様をお迎えして、自分の生涯の救いと導きをお願いするか」ということにあるのである。            

 

      (続く)  


◎ 暗誦聖句 テサロニケ前書四章一二節 

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