◆ ロマ書の学び(168)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年一一月二六日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 ロマ書の一章から八章において私たちが考えてきたこと、学んできたことは特に、「神様は罪の世界、滅びつつある世界から私たちを選んで下さった。私たちがイエス様を選んだのではなく、神様の側から私たちに声をかけ待ち受けていて下さった」ということである。「神様が私たちを選び、救いに招いてくださった。私たちがまだ罪人であった時に、キリストは死んで下さった」とロマ書五章で学んだ。

 さらに、神様の前に立つ資格のない罪深い、汚れの多い私たちを、神様の側でご用意してくださった清めの血で洗ってくださり、全く罪を犯したことがない者として認めてくださる。こうして「義と認められる」ということを学んだ。さらに、地上における生活の中での様々な苦しみや痛み、悲しみの経験の中にあって、最終的な喜び、魂の安らぎ、そして栄光の姿、不滅の栄光へと私たちを導いてくださるのである。

 こうした事柄を使徒パウロは一章から八章において書いてきた。さらにパウロは、神様の大きな憐れみと救いをいただいた私たちが神様にどうお答えするべきか勧(すす)めている。第一は、ハレルヤと主を賛美するということ。第二に、神様が、私たちの味方(みかた)でいて下さるならば、誰が私たちに敵対することが出来ようかと固く信じること。

 文語体では誰か我らに敵せんや≠ニなっている。この「〜か」「〜や」という言葉は、明確に、強く強調する言葉である。この意味は「誰もあなたに敵対し、あなたを負かすことの出来る人はいません。絶対にいません。」という意味である。文語体は、そういうところを非常に明確に強調している。「文語体は難(むずか)しい」と、敬遠しないでいただきたい。文語体は非常に美しく、覚(おぼ)えやすく、さらに言葉がしっかりと心の中にしみこんでくる。

 誰か、我らに敵せんや=u誰も絶対にそういうことは出来ない。誰一人、この世の中に私を負かせる者はいない。」という大変強い表現である。それを覚えていただきたいと思う。

 また、神、もし、我らの味方なれば≠ニは、もし神さまがあなたの味方であるならば、という意味ではないことを覚えて欲しい。文語体聖書のこの「もし」という言葉は、「実は本来、そういうわけであるから」という意味で、英語では「since〜」と同じ用法である。「神様が私たちの味方であるゆえに」ということである。私たちは仮定形の「もし」という言葉をよく使うが、この場合は仮定形ではなく、一章からずっと箇条書きにあげてきたように、という結論なのである。  (続く)


◎ 暗誦聖句  テサロニケ前書四章  

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