◆ ロマ書の学び(169)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年一二月三日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 天地をお造(つく)りになった創造者であられる神様が、私を滅(ほろ)びの中から引き上げて下さる。私の努力ではなく、神様の側で私が救われる道を開いてくださった。私が祈ろうとしても祈れない、言葉にならないような時に、聖霊のとりなしが与えられている。神様によって召し出された私のために、全てのことが相働いて益となるのだ。それゆえに、神様は私たちの味方(みかた)でいて下さるのだ、という結論になるのである。「もし」という仮定形ではなく、「こういう理由で」神様は私たちの味方をして下さる。神様は私たちの味方でいて下さるから(その結論は)、誰も私たちをさばくことはできない。

 ところで、私たちを裁くものは誰であろうか。お隣の奥さんだろうか、町会長か、国の役所の担当者だろうか。ある面では市民生活にはそういうこともあるだろう。けれども、一番、イエス様を信じる者たちをあげつらい、裁(さば)こうとするものは、ほかならぬサタンなのである。悪魔は私たちにささやきかけてくる。「あなたは、牧師にだまされるんじゃないぞ。彼の言うことは間違いだから。」「あなたがそんな十字架を信じたって救われない。他の人を見てごらん、皆努力しているではないか。人は努力によって救われるのだ。」「何?あなたが救われているって。救われているのだったら、どうしてそんな悪いことをするのだ。嘘(うそ)もつくし、イタズラもするし、夫婦喧嘩もするし・・・。そんな人間が救われているはずがないだろう。」悪魔はこういう風にして、私たちを攻撃してくるのである。

 だから、使徒パウロの頭にあったのは、神様が私たちの味方でいて下さるので、私たちは悪魔に対してさえも勝利をおさめることができる、ということであった。

 悪魔は人間の心を通して働く。人間の思いを通して、悪魔は様々な攻撃をしてくる。時には、神様を信じると公言する人を通して働くことがある。その例が旧約聖書にある。

 イスラエルの王に対して一人の預言者が立てられ、彼は神様のみ言葉を述べ伝えた。そして帰る途中、「私も神様を信じている預言者である。」と言ってやってきた老人が、その若い預言者を神様のみ言葉から引き離してしまったのである(列王上一三章)。 

 クリスチャンを一番に攻撃してくる悪魔に対して、私たちは、自分が強いからではなく、神様を信じる故(ゆえ)に勝利をおさめることができる。このことを覚えていただきたい。神様があなたの味方であられるのだ。(続く)


◎ 暗誦聖句 使徒行伝一二章五節
斯(かく)てペテロは獄(ひとや)のなかに囚(とら)われ、教会は熱心に彼の ために神に祈をなせり。=@

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