◆ ロマ書の学び(170)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇六年一二月一〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 私たちは、まず第一に、神様が創造主でいらっしゃること、そしてまた、私たちに味方をして下さる故に、どのように悪魔が私たちに攻撃を仕掛けてきても、私たちは決して負けることはない、ということを覚えていただきたいと思うのである。サタンは様々な形で、人類に対して攻撃を仕掛けてきて、神様に逆らうように仕向けてきた。

 私たちは、この地上の社会において、悪いことをすればさばきがある、ということを知っている。しかし、そのさばきは、人間の社会だけのさばきではない。私たちは神様が全(すべ)てのものの裁(さば)き主でいらっしゃる、ということを忘れてはいけない。誰が、全知全能の神様の前に「私は正しい人間です。」と言って立つことができるだろうか。私たちの裁き主、裁判官は、黙示録を見てわかるように、キリストご自身なのである。

 イエス様の前に立たされた私たちは、何一つ隠(かく)すことはできない。全てのことが明らかになり、裸(はだか)の状態で神様の前に立たなければならないのである。

 裁判官がキリストであり、裁きの宣告をなさる方が主イエス・キリストである。けれども、私たちの弱さを理解して下さり、とりなして下さるお方が、また主イエス・キリストである、ということが、ここでまたわかる。

 人間の社会では、判決をくだす裁判官が被告人の弁護をすることはまずあり得ない。仮に裁判長の息子が殺人を犯(おか)したとしても、父親が裁く時に「お前は私の息子だから許してやろう。」とか「刑を軽くしてやろう。」ということはできない。裁判官は自分の息子であっても、自分の家族であっても、正しい裁きをしなければならない。

 イエス様は、私たちをお裁きになるお方である。けれども、その裁判長自身であるイエス様が、私のために、一人一人のクリスチャンのために、とりなして下さる弁護人としても立って下さるのである。

 私たちは、神様の遠大な目的のために罪の中から救い出された。そしてまた、神様の愛によってはぐくまれ、神様によって義と認められ、神様の子供とされた。ロマ書五章八節に戻って見て頂きたい。

されど、我らがなお罪人たりし時、キリスト我らの罪のために死に給いしによりて、神は我らに対する愛をあらわし給えり。℃рスちがまだ、罪人であった時に、キリストが私たちのために死んでくださった。常に裁判長であられるイエス様ご自身が、私たちに対する愛を表して下さった、ということである。             

 

  (続く)

 


◎ 暗誦聖句 テサロニケ前書五章一六〜一八節A

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