◆ ロマ書の学び(171)
それ神はその独り子を給うほどに世を愛し給えり。す べて、彼を信する者の滅びずして永遠の生命を得んた めなり。=@ ヨハネ伝三章一六節 多くの人が暗誦していらっしゃる有名な聖句であるが、 主は、我らの父なる神のみ心に従いて、我等を今の悪しき世より救い出ださんとて己が身を我らの罪のために与え給えり。=@ ガラテヤ書一章四節 イエス様ご自身が、私の身代わりとして十字架上で罪を背負って下さった。 旧約聖書のイザヤ書五三章六節には、我らはみな羊のごとく迷いて各々己が道に向かい行けり。然るに、エホバは我ら全ての者の不義を彼の上に置き給えり。≠ニある。私たちは皆、羊のように迷って各々自分勝手な所に行ってしまった。けれども全能の神様は私たちの不義、汚れすべてをイエス・キリストの上に置いて下さった、と言うのである。 神様は、私たちの必要のすべてをお与え下さるお方である。霊的にも、また、永遠という時間の世界にも、さらに物質的必要にも、神様はあなたの必要を満たして下さるお方である。私たちはこの地上の生活において、霊的な力が必要である。 新約聖書のガラテヤ書五章を見ると、その二二節から二三節においてされど、御霊(みたま)の実(み)は、愛、喜び、平和、寛容、情け、善良、忠信、柔和、節制なり。かかるものを禁ずる掟(おきて)はあらず。≠ニある。 御霊の実を結ぶ。生まれつきの私には、誰かを愛するという力がない。喜ぶことも、神様を喜ぶこともできない。また、神様との平和も自分の力で満(み)たすことができない。イエス様を信じた時に、聖霊の内住という事がおこる。バプテスト教会では、「聖霊のバプテスマ」というのは、ただ一回、イエス様を信じた時に与えられるとするので、それ以後、癒(いや)しのためや預言を話すためにバプテスマを受けるということは考えない。私たちは聖霊の実を結ぶように神様から求められているのである。しかし、それは自分の努力ではできない。自分自身を神様に明け渡すということによって与えられてくるものである。 (続く)
◎暗誦聖句 テサロニケ前書五章二節 |