◆ ロマ書の学び(173)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年一月一四日号
         ▽ み言葉に生きる

 神様は、私たちが必要なものすべてをご存知でいらっしゃる。そして、その必要をいつも満(み)たして下さる、という約束がある。

 私は献身をする時に少しためらいがあった。父親は熱心な仏教徒だったので、若い私に「クリスチャンになったら日本で生活できないぞ。」と言った。ましてや「キリスト教の牧師になったら食べていけないぞ。」と言ったのである。皆さんも経験があると思うが、日本の社会では「クリスチャンになります。」と言うと大抵の親は脅(おど)かす。「そんなことを言ったら、就職できないぞ。」とか「大学受験できないぞ。」あるいは「昇進できないぞ。」と。

 親は必ずしも、皆さんに反対するのではなくして、クリスチャンになって食べていけるのか、ということが心配なのである。信仰ということを第一として、あなたは食べていけるのか?という心配があるのである。若い皆さんに、これから降(ふ)りかかってくる試練があるだろうが、覚えておいていただきたい。

神もし我らに味方(みかた)せば、誰か我らに敵せんや。

 神様は私の祈りを聞いて下さる。私を罪の滅びから救って下さった。全てのことが相働いて益となるように、いつも見守っていてくださるお方である。イエス様ご自身が、私の身代(みがわ)りとなって下さった。天地万物をお造りになった神様が、私に味方をして下さっている。だから、誰も私を倒すことはできない。私はその神様に、全てを明け渡して委(ゆだ)ねているのだ。

 こんな強い力はない。もう社長や校長の顔は怖くないし、マスコミも怖(こわ)くない。お舅(しゅうと)さんも怖くない。何故ならば、私たちが神様に従っていく時に、どんなに悪魔が周りの人たちを通して、私たちを攻撃してきたとしても、私たちは決して負けることはないのだ。私たちは、自分が傷つくことだとか、殺されることを怖がるが、イエス様にすべてを明け渡した時に、使徒パウロは何と言っただろうか。私たちにとって死ぬことはキリストのためなのであり、生きることもまた、キリストの御名のためなのである。

 死ぬことも生きることも全て、神様の御手に委ねて明け渡した時にロマ書八章三一節の言葉が現実の約束として迫ってくるのである。

されば、これらのことにつきて何をか言わん。神もし我らの味方なれば、誰か我らに敵せんや。

              (続く)
 

◎暗誦聖句 テサロニケ後書一章三節後半
そは汝らの信仰おおいに加わり、各自(おのおの)みな互の愛を 厚くしたればなり。

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