◆ ロマ書の学び(175)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年一月二八日号
         ▽ み言葉に生きる

然(さ)れば此等(これら)の事につきて何をか言わん、神もし我らの味方(みかた)ならば、誰か我らに敵せんや。己(おのれ)の御子(みこ)を惜(お)しまずして我ら衆(すべ)てのために付(わた)し給(たま)いし者は、などか之(これ)にそえて萬物(ばんぶつ)を我らに賜(たま)わざらんや。

      ロマ書八章三一〜三二節

 日本では最近、出産は自分の家で、あるいは助産婦さんにお願いして、大きな病院ではなく出来るだけ家庭的なところで出産をしたい、という妊婦が増えているそうである。

 大きな病院での出産は、あまり歴史が古くはない。かつてアメリカで最新の設備とたくさんの医療スタッフを整えた大病院で、赤ちゃんを産むことがかなり一般的になった頃に、突然のように赤ちゃんが死んでいくという事件が起こった。一年のうちに一〇〇人以上の赤ちゃんが死んでいったのである。最高の医療チームで万端整ったと思われる大病院でいったいなぜ生まれたばかりの赤ちゃんが原因不明のまま死んでいくのか研究された。

 原因は親の愛情であった。お母さんや周りの人の愛情を受けることが少なかったためであった。

 大きな病院では赤ちゃんがずらっと寝かされて、看護婦さんが時々見に来るという状況になり、お母さんに抱かれたり、あやされたりということがなかった。そういう、愛情を受けることが出来なかった赤ちゃんが次々と死んでいったのである。

 実際に起こったこの出来事は、ことばのわからない生まれたばかりの小さな赤ちゃんであっても、お母さんの胸に抱かれる、あるいは看護婦さんに抱かれて、いつも声をかけられることがどんなに大事かを表している。

 他人が見ると、言葉のわからない赤ちゃんに話しかけるなんて馬鹿じゃないか、と思うかもしれない。けれども赤ちゃんは一年何ヶ月、ずっとお母さんに毎日声をかけられていく間に、だんだん言葉を蓄積しているのだ。

 そうして頭の中にはぐくんだ言葉を、一年半ぐらい経って突然のように話し始めるのだ。生まれてきた赤ちゃんにとって何よりも大事なことは、赤ちゃんにふれて声をかけて胸にしっかりと抱きかかえてあげるという愛情表現なのである。

 使徒パウロはロマ書において、私たちイエス様を信じる者が毎日どのような生活をしていくのか、また自分が今どういう状態に置かれているのかを克明に書き記した。    

                (続く)
 

 

◎ 暗誦聖句 テサロニケ後書一章六節前半
 

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