◆ ロマ書の学び(179)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年二月二五日号
         ▽ み言葉に生きる

 私たちは小さいときから浦島太郎の寓話を聞いてきた。竜宮城で自分の食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、歌い踊るという、そうしたにぎやかな竜宮城にいても、浦島太郎は決して幸せではなかった。

 私たちはむしろ、いろいろな試み、苦しみや痛みの中にあって、神様から慰めをいただき、生かされていることを感謝するのである。どのような環境に置かれても、神様を見上げて、そこに神様の愛と憐れみを日々味わう事が出来る。これは大変感謝な事である。

 私たちは、食べる物、着る物、住む所など経済的な必要がある。クリスチャンになったら、ただ祈って、神様からすべて与えられればよいという世界ではない。私たちは神様の御心のうちに働き、自分で必要なものを手にいれていく必要がある。そういう中にあって、神様のお約束をいつも思い返すことが必要だと思う。

 最近話題になった、自動車メーカーのフォード。初代フォード氏はアルぺシヤという重い病にかかった。当時では重い病気である。髪の毛が全部抜け、食欲が無くなった。お金に困ることの無い状況にあっても彼は自分で食べることが出来なくなった。人間はどんなにお金があっても、立派な家に住んでいても、食欲が無ければ、身体を維持することは難しい。

  イエス様は、さらば何を食(くら)い、何を飲み、何を着んとて思い煩(わずら)うな。…まず神の国と神の義とを求めよ、然(さ)らば凡(すべ)てこれらの物は汝らに加えらるべし(マタイ六・三一、三三)≠ニお約束なさった。またイエス様は、凡(すべ)て労する者・重荷を負う者、われに来(きた)れ、われ汝らを休ません(マタイ一一・二八)。≠ニ仰せになった。

 日本でも一時、流行(はや)ったようであるが、定年間近になると、上司から肩を叩かれ、窓際へ追いやられる。毎日会社に出勤しても、やる仕事が無くなって来る。そうして退職の日がくる。これまでやりたかったことをやろうと思っても、毎日が日曜日という状態になると、人間はかえって不安定になると言われている。あるお宅では、もうすでにご主人が退職なさっているかもしれない。子育てもおわり、今は、毎日のんびりとした生活かもしれない。ではそうした生活で、人間は本当に幸せであろうか。

 今、日本でも、ボランティア活動やシルバー人材バンクがある。定年後も自分たちが何かをして誰かの役に立ちたい。誰かの役に立つならばその見返りはお金ではない、愛されるということである。自分がまだ人の役に立つのだ、愛されるのだという体験を求めているのだそうだ。

 イエス様は、私たちに魂の休みをお与えになられた。凡て労する者・重荷を負う者、われに来れ、われ汝らを休ません。≠ニ仰せになられた。     (続く)

◎ 暗誦聖句 マタイ伝五章三節
幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。
 

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