◆ ロマ書の学び(183)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年三月二五日号
         ▽ み言葉に生きる

われ確く信ず、死も生命も、御使も、権威ある者も、 今ある者も後あらん者も、力ある者も、高きも深きも、 此の他の造られたるものも、我らの主イエス・キリス トにある神の愛より、我らを離れしむるを得ざること を。=@      

   ロマ書八章三八〜三九節

 上記のみ言葉から黙想を続けるが、これまでの復習をかねて、今ロマ書のどの辺にさしかかっているか、ふれておきたいと思う。
多くの注解書にあるように、ロマ書は、聖書の中で、最もキリスト教の教理をはっきりと教え、また確かな神学的な土台を築きあげている書簡である。

 ギリシャ人は朝から晩まで、知恵を求め論争したが、他方ローマ人は大変具体的に、実際的な問題、しかも手っ取り早く何かを求めるという、きわだった特徴を持っていた。ギリシャ人は神話に見られるように、空を見つめては思索をするというのが大変得意であり、他方ローマ人は実際的な、生活に密着した考え方を求めていた。

 使徒パウロは単刀直入に神様の教えとはどういうものかを求める、ローマの兵隊、将校達、市民達にこの書簡を送ったわけである。だからロマ書を見ると、キリスト教とはどういう教えかが、わかってくる。

 かつて日本の「無教会主義」を唱えた伝道者内村鑑三は、東京の麹町において、毎週夜ロマ書の講解説教をした。入りきれないほどの聴衆(大体が役人)がその説教を聞いた。私も内村鑑三の本を何度も読み返したけれども、読んでいると大変心が燃える。

 残念なことにこの内村鑑三という人は、大変日本を愛したゆえに、国粋主義に類するような考え方があちらこちらにみられる。若い頃、私にとって大事な成長の時代に、内村鑑三という伝道者の書いた本から、様々なことを学ぶことが出来た。ただし、どんなに堕落した自分であっても教会を通して、働いてくださるということを忘れてはいけない。

 ところで、私たちが知りたいと思う所、これはどういう意味なのだろうという所は、たいていの注解書がそれについて、サラっと、あるいは飛ばして書かれている。そのためロマ書の勉強は、日本の神学校でも学んだけれどもよくわからなかった。アメリカに行って、参考書を読んだり大学院で勉強したり、特別の講義を受け、ああ、こういうことであったのかと少しずつわかってきたのである。また、読むたび、学ぶたびに、さらに使徒パウロの心、神様は何を私達に語っていらっしゃるかが少しずつ見えてくる。           ( 続 く )

 

◎ 暗誦聖句 箴言一六章三一節

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