◆ ロマ書の学び(184)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年四月一日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 この年になると、「あれが欲しいこれが欲しい」という物欲が段々そぎ落とされてきた。家族から誕生日に何が欲しいかと聞かれても、「どうしてもこれが欲しい」と言う物が浮かんでこないのだ。逆に、一日一日、「神様のお役に立ちたい。誰かの役に立ちたい。苦しんでいる人、悲しんでいる人の役に立ちたい。神様用いてください。」という思いが段々と強くなってきている。

 一〇数年前、前立腺癌をわずらってから、「今、生かされているのは神様の憐れみであり、プレゼントである」と思っている。そのボーナスをいかに有効に使うか、いつか神様に召される時が来ても悔いのない日々、毎日毎日がベストの日であるように、と祈っている。

 ロマ書は読めば読むほど、奥が深いと思う。そして、特に人生の後半に入った皆さん、五〇歳を超えた皆さんには是非このロマ書を読んでいただきたい。五〇歳を超えると、悲しいこと、嬉しいことだけでなく、悩みの人、様々な人生の重荷を負う人に日々直面するからである。悲喜こもごもの人達の中にあって、どうやって私たちがその人を慰めたりできるか、考える年齢となるのだ。私たち自身、自らの将来に対して、「どういう約束を神様から頂いているのだろう」ということを深く思う。確かに、書かれた神様からの契約があるわけだから、しっかり心に蓄えておけば、残された日々に力と慰め、輝きをいただくことができると思う。

 ロマ書の一章から五章においては、信仰によって義と認められるという「信仰義認」の教理が書かれている。神様は私たちの為に、特別なご計画を下さったのである。

 六章から八章においては、神様のご性質に合わされた者として清く変えられていくという「聖化」の教理が書かれている。聖化は、私たちの内側に働いてくださるお方、聖霊の「内住」ということを通して、日々の生活の中でなされていく。

 私たちはイエス・キリストを信じた瞬間に罪、汚れを洗いきよめられるが、この地上に生きている間、さまざまな罪というものを経験し、またその中に生活している。ペテロがイエス様に足を洗っていただくとき、「イエス様、足だけでなく体全部洗ってください。」と叫びをあげたように、私たちも、そういう願いを持つ。地上において、毎日毎日人間として生きている間、神様によって清められていかなければならない。それは、石けんで洗うわけではなく、神様のみ言葉を読み、心に蓄え、み言葉によって自らの願い、欲望というものが、少しずつ浄化されていくのである。

 

(続く)

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