◆ ロマ書の学び(186)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年四月二二日号
         ▽ み言葉に生きる

 パウロはロマ書八章後半で、「私たちがイエス様を信じるなら、誰が私たちに敵対することができようか。そして御子(みこ)イエス・キリストを下さった神様は、私たちの必要のために、凡(すべ)てのものを下さらないことがあろうか。」と記している。

 もし経済的に苦しい状況にあるならば、この聖句を思い返していただきたい。机の上に、ベッドの脇に、台所の自分が包丁を持つ目の前に貼(は)っていただきたい。どこへ行ってもこの聖句が皆さんの目に焼きつき、心に焼きつき、頭に焼きつくように。そして、自動車に乗るときも、電車に乗るときも、この聖句を言ってほしい。

 私たちは聖句を読み、考え、教えられたならば、それをしっかり心に焼きつけ、それが実際生活の中で、役に立たなければならない。

 かつて、日本からアフガニスタンのテロ組織にむかうイージス艦を出すか、出さざるべきかとの議論があった。この時、変な話であるが、ワシントン大統領がお父さんからもらった新しい斧で、お父さんが大事にしていた桜の木を切ってしまった、と言う話を思い出した。日本は、最新鋭のイージス艦を持っている。持っていれば当然使いたくなるであろう。持っていて、隠しておくことは出来ないのである。やはり、持ったならば、それを使いたい、見せたい、というのが人間の心情だろうと思う。

 皆さんはそれ以上に、はるかに大きな神様の力というものをいただいているのである。そうであるならば、毎日の生活で使わなければならない。使わなければ、皆さんがよく言うところの、宝の持ち腐(ぐさ)れ≠ナある。

 イージス艦の是非は別として、皆さんは神様からいただいている、イージス艦以上の力を使っているだろうか。「いや、もったいないから使いません。」では、信仰はダメなのである。私たちは神様からいただいた約束を、毎日毎日、実際にそれを生かすことによって、クリスチャンとしての香(こう)ばしい香(かお)りを放(はな)つことが出来る存在となり、地の塩、世の光としての働きをすることが出来るのである。

 ロマ書八章三三節から三六節において、私たちは神によって義(ぎ)と認(みと)められることを教えられる。私たちの義と認められる土台は、イエス・キリストの十字架上での死と復活である。イエス様の復活という出来事は、イエス様を信じる私たちそれぞれが、この地上の生活において、また、この地上の愛する人達との別れにおいて、確かな勝利の約束、すなわちイエス様が復活なさって、死を征服(せいふく)なさったと同じように私たちも全知全能の神様のもとに携(たずさ)えあげられ永遠に過ごす、という約束が与えられている。        

      (続く)


◎ 暗誦聖句 マタイ伝八章一七節「 」
『かれは自ら我らの疾患をうけ、我らの病を負う』

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