◆ ロマ書の学び(189)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年五月一三日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 「仰ぎ見る」とは、原語からすると「天文学者がじっと一つの星を見つめる」という意味である。故に、そのようにイエス様を仰ぎ見よということである。

 聖書の中には、「もし」という言葉が繰り返し出てくる。三一節のさればこれらの事につきて何をか言わん、神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや。≠ニいう場合の「神もし」の場合は、一章から始まって神様の愛が確かな故に、そういう理由であるから「私たちは誰をも恐れる必要がない」ということである。
聖書の中にたくさん出てくる「もし」という言葉は、人間に関わる言葉である。

ここにイエス弟子達に言い給う。人もし、我に従い来らんと思わば、己(おのれ)をすて、日々おのが十字架を負いて、我に従え。=@    ルカ伝九章二三、二四節

 詳訳(しょうやく)聖書は「誰かが私に従って来たいと思うならば、自分自身を忘れなさい。あなた自身を忘れなさい。そしてまた自分に目を向けることをやめてしまいなさい。そして自分の利益を求めることを拒みなさい。自らの希望すべてを神様に明け渡しなさい。そしてその人の背負う十字架を一日一日、背負ってしっかりと私につながってきなさい。あるいは私の生命の模範に従って、私の通りにおこなってきなさい。また必要であるならば、死をも賭(と)して、…」と大変細かく、解説している。

 イエス・キリストを信じるならば、世界中の人々が反対をしても、私たちは確かな勝利の道を歩くことができる。

 かつて私たちが読売新聞、朝日新聞に対して抗議をした時、日本の牧師、宣教師などを含めて約百人以上に「同じように立ち上がって下さい」と訴えたが、応答して下さった方は四人だけで、後はアメリカの二人の先生しか抗議しなかった。しかし、両新聞社とも謝ってきた。朝日新聞においては、大阪本社からわざわざこちらに謝りにきた。皆さんは「何だ、うちの牧師はあんな事ばかりやっていて、けんか好きだなあ。」と思うかもしれない。しかし、これはけんかではない。「聖書信仰に立つ者は、イスラム教の過激派、テロを行う者と同じように危険である」と新聞に書かれたため、そうではないと言ったのである。私たちはテロリストではない。自分たちがテロを行う者ではない、となぜ他の教会は鮮明にしないのだろうか。神様が私たちに味方して下さるならば、たとえ一千万部印刷する読売新聞であろうと、八百万部の朝日新聞であろうと、ものの数ではないのである。                      (続く)


◎ 暗誦聖句  ロマ書八章二六節前半
かくの如(ごと)く御霊も我らの弱気を助けたもう。

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