◆ ロマ書の学び(191)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年五月二七日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 ロマ書の中にも「もし」と言う言葉が多く出てくる。

 人間の行動には、神様がご覧になった時、「もし」という条件がつく。しかし、神様の場合は絶対だから、「……の故に」という言葉になる。

 もしあなたが心の扉を開くなら、私は、あなたのうちに入って食事を共にする。もしあなたが毎日の生活の中で、自分が背負う十字架を背負ってついて来るなら、もしあなたが自分の口でイエス様を告白するならば、である。神様は、「おまえの口を大きく開けろ」というように強制的にはなさらない。神様は、「もしあなたが自分の意志で私に従ってこようとするならば、私は確かな保証を与えます。もしあなたが、私が言う通りに行動するならば、私は絶対的な勝利を与えます。」と、おっしゃられる。ここに信仰の、本質があるのだ。

 人間の約束は、しばしば反故(ほご)にされ、破られる。しか
し、神様の約束は絶対に破られることがない。旧約聖書、それは古い翻訳ではなく、古い契約である。新約とは、イエス・キリストを信じるものは、誰でも救われる、という新しい契約である。

 神様は私たちを強制的にクリスチャンにするのではない。「もし、あなたが自分の意志で、イエス様を心にお迎えしたいと望むならば、私はあなたを私の家族に導き入れる。そして、今度は私があなたの行く先、何処に行っても勝利を与える。」と約束なさっておられる。

 皆さんがこの地上における生活の中で、勝利を手に持ちたいと思うなら、どうかこのイエス・キリストを心にお迎えしていただきたい。イエス様に従っていく時、また、家庭や職場において、経済的、情緒的に様々な必要の中、イエス様の御名のために皆さんが証をする時に、迫害を受けるかもしれない。「私はクリスチャンです。」ということを鮮明にする時、大きな反対が起こってくることもある。三〇万〜四〇万人のクリスチャンがローマの力によって、殺されたという。そしてまた、一九四〇年代から、一九五〇年代において、南米コロンビアにおいても多くの人が命を奪われた。私たちはそう言う迫害を受けていない。もし迫害を受けたとしても、イエス様の御名の故に苦しみを受けるならば、神様は、私たちに勝利をお与え下さるという約束がある。

 私は決して皆さんに、イスラム教徒のように、聖戦(ジハード)だと言っているのではない。私たちは武力ではなく祈りによって、力ではなく愛によって、イエス・キリストを宣べ伝えていくのである。   (続く)

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