◆ ロマ書の学び(192)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年六月三日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 聖歌四二八番、四五〇番はロマ書九章に大変関(かか)わりのある讃美である。ロマ書九章から一一章の三つの章は、挿入箇所と言われる。一章から八章までで使徒(しと)パウロは、イエス・キリストの十字架の身代(みが)わりの死、そしてイエス様の流してくださった血潮(ちしお)によって、私たちが救われるという救いの誉(ほ)め歌を書いた。八章の最後においては、力ある者も、高きも深きも、此の他の造(つく)られたる者も、我らの主キリスト・イエスにある神の愛よりわれらを離(はな)れしむるを得(え)ざる事を。≠ニ。

 イエス・キリストによって救われた者たちの救いのすばらしさは、イエス様が毎日必要な食べ物、着る物、住むところをお与(あた)えくださるという約束(やくそく)である。使徒パウロは、約束だけではなく、確(たし)かにイエス様を信じる者たち一人一人の生活を、毎日支(ささ)えてくださるというその神の憐(あわれ)みを歌いあげた。感極(きわ)まり、その感動の高まりの中にあって、彼はふっと自分自身の生(お)い立ちを思い起こす。それが九章から始まる挿入箇所(そうにゅうかしょ)である。

 八章までは、キリスト教の信仰とはどういうものであるかを説明をし、論(ろん)じた。「神を愛する者、信じる者に対しては、どのような苦しみ、悲しみ、また人間の社会における様々な経験をも相働(あいはたら)かせて、神様は私たちの益(えき)として下さる。しかも、それは将来(しょうらい)、神様によって携(たずさ)えあげられる天の御国(みくに)の栄光の姿(すがた)へと変(か)えられる」と歌いあげている。

何故(なにゆえ)み神は、かかる身(み)をも神の子とせしか、知るを得(え)ねど。我がより頼(たの)む主は委(ゆだ)ねたる身(み)と霊魂(たま)を、守(まも)り得(え)給うと確信するなり。=i聖歌四五〇番)

 「何故」とは、どうして、なぜ神様は、このような罪深い私のような者を、救ってくださったのか。人間の理解を超えた神様のお選(えら)び、ということを歌っている。

 殺され給いし小羊なる主の、血の力に代わりあらじ。世より選(えら)ばれし、神の民のきよめの恵みを受くるまでは。=i聖歌四二八番の三節)

 この世の中から選(えら)び分(わ)かたれた者、神様に選(えら)んでいただいた、み恵みを、それぞれが自分自身のものとして味(あじ)わい、知らなければならないと歌われている。以前、月一回、ひたちなかの八八歳になるF姉の所に訪問をしていた。当時は、二〇年間寝たきりの生活で、若い頃に助産婦として働いていた面影(おもかげ)は全く無くなり、骨と皮だけの姿になっていた。伺(うかが)うたびに心が締(し)め付けられる思いがし、あと何ヶ月、何年、この地上で生活なさるのかということを考えた。ほとんど寝(ね)たきりの状態で、もう自分ではたべものを口に運(はこ)ぶことが出来ない状況になっていた。彼女の一切(いっさい)の世話(せわ)をしておられたご主人はすでにその三年ほど前、ガンで亡(な)くなられていた。(続く)


◎ 暗誦聖句 エペソ書六章一〇節
終に言わん、汝ら主にありて其の大能(たいのう)の勢力(いきおい)に頼(よ)りて 強かれ  

本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。