◆ ロマ書の学び(193)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年六月一〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  古田姉を訪問するときに、私は自分が使っている物を持って行ったり、飲みやすいものを届けたりした。この寝たきりの姉妹は、私たちが行って耳元でこの讃美を歌うとパッと目をあけて声を出すのであった。ほとんど言葉を交わすことのない、口を閉ざしたままの方が、讃美をきくと、パッと口と目を開いて、讃美を歌ったのである。しかも昔聞いた歌(『とうとき泉あり』ではなく)『さまよう人々』という歌詞で歌ったのである。さまよう人々立ち返りて・・・≠ニ、ずっと三節ぐらい暗唱しておられた。また、この姉はご自分が若い頃、京都で学んでいたときの歌、『山路越えて』という歌も三節ぐらい暗唱されていた。

 人間は、年を取り、自分では動くことが出来ず、起きているか寝ているか分らない状態にあっても、心に蓄えた神様の御言葉や讃美が何かの言葉をきっかけに、ふっと出てくる。すばらしいことだと思う。こうして日曜日の朝、心を静め、神様を褒(ほ)め称(たた)える讃美を耳にし、心が落ち着く空間があることはすばらしいことである。

 現代のキリスト教世界においては、若者たちを教会に導こうということで、ロック音楽などさまざまなやかましい音楽が取り入れられている。しかし、私たちは決して賛成しない。神様から与えられた音楽は悪魔に使われてはならない。あくまでも、神様をほめたたえるための音楽として、人々の心を癒(いや)し、慰め、力づける、神様から与えられたものとして、これからも守って行かなければならないと思う。

 毎週遠くからみなさんが、礼拝に集っていらっしゃる。近くに教会が幾つもあるのに、それを超えて、当教会にいらっしゃるので本当に感謝だと思う。思い起こすのは、シカゴのムーディー教会へ行った時のことである。現在のムーディー教会は、普段の日はほとんど入り口の門は閉まっている。私も記念教会に行ったときに、教会堂内をみたいと思ったのであるが、戸が閉まって入れなかった。ムーディー伝道者は大変太った伝道者であったとか。彼は日曜学校に力を注いだ。日曜日、遠くから雪の中を子供が走ってくる。その町の教会の前を通り過ぎるその子供に、日曜学校の先生が声をかけた。「君、どこへ行くんだい。この雪の時に。」「僕、日曜学校へ行くんだ。」「日曜学校ならここでもやっているよ。」「いや、僕はムーディー先生の教会へ行くんだ。」「どうして」「ムーディー先生の教会は僕を愛してくれるから。」という大変有名な、逸話が残っている。

    (続く)

 


◎ 暗誦聖句 イザヤ書二六章三節前半

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