◆ ロマ書の学び(195)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年六月二四日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 英語の翻訳では「カンマ」と「ピリオド」の違いである。イエス様を神様と信じない人々は、この文章のなかで、「ピリオド(.)」だけで収めてしまう。しかし、イエス・キリストは讃(ほ)むべき神なるかな≠ニいう人たちは、これを「カンマ(,)」でつないでいる。人類の歴史上二〇〇〇年間論争されて来た、もっとも際(きわ)だった論争のポイントは、ロマ書九章五節にあった。イエス・キリストは「単なる人間」として、この地上においでになったのか、それとも処女降誕なさった「永遠の神」としておいでになったのか。分かれ目がここにある。

 「ピリオド」=日本語では丸(。)か点(・)か句読点(くとうてん)(、)かということである。これは有名な歴史上の、聖書の翻訳(ほんやく)のチェックの箇所(かしょ)である。キリストは萬物の上にあり、永遠に讃むべき神なり、アァーメン。≠ニ文語体では、はっきりと言っている。

我に大(おおい)なる憂(うれい)あることと心に絶えざる痛(いたみ)あることとを、我が良心も聖霊によりて証(あかし)す。=@ロマ書九章二節

 使徒パウロは、八章三一、三二節において、神もし我らの味方(みかた)ならば、誰か我らに敵せんや。己の御子(みこ)を惜(お)しまずして我ら衆(すべて)のためにわたし給いし者は、などか之にそえて萬物を我らに賜(たま)わざらんや。≠ニ歌い上げた。

 罪の世界、悪の世界から召し出してくださった神様は、御子(みこ)イエス・キリストを十字架にお付けくださって私の身代(みが)わりとしてくださった。ましてや、毎日食べる食べ物、着る物、住むところすべてを神様は養(やしな)ってくださらないはずがない。どのような人生の悲しみ、痛みの経験も、病いも、事業の失敗も、時には人に裏切られることも、失恋もあらゆる面において、それはイエス様を愛すると言う者にとっては相働いて、益となる。

 私をうち負かすものはいるだろうか。この書簡をかいているパウロ(サウロ)は、同じイスラエルの民族、ユダヤ人から、追われ、剣や石撃ち、様々の迫害を経験してきた人物であった。イエス・キリストを信じるまで彼は、旧約聖書のユダヤ教を信じ、メシヤを待ち望んでいた。

 このサウロは、クリスチャンを迫害し、捕(つか)まえては牢屋(ろうや)に入れていた。現在の急先鋒(きゅうせんぽう)であるタリバンのようであった。彼は、律法を熱心に勉強していた。サウロはクリスチャンを捕まえるためにダマスコへ向かう途中、天からの強い光を受けた。そして、復活なさった御子イエス・キリストから御声をかけられた。「サウロ、サウロ。何ぞ我を迫害(はくがい)するか。」

その時からサウロは三日間、目が見えなくなった。「主よ、私は何をなすべきでしょうか。」復活のイエス様にお会いして、それまでの彼の歩(あゆ)み、戒律に縛(しば)られ、律法主義(りつほうしゅぎ)にあったユダヤ教徒であるサウロは全く変(か)わったのである。     (続く)


◎ 暗誦聖句   マタイ伝九章二節「」内
「子よ、心安かれ、汝の罪ゆるされたり。」
 

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