◆ ロマ書の学び(202)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年八月一九日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 私たちが一般論として考えられるのは、イスラエルの人々が、いまだにイエス・キリストを救い主と信じていないからということである。彼等は今でも、新約聖書をいっさい読まない。かえって、ユダヤ人にイエス様の事を伝えようとする宣教師やクリスチャンを迫害している。そして、国の政策として、イエス・キリストのことを宣べ伝える者は、追放するということまで、国会で議論している。だから彼等は未(いま)だに、平和なイスラエルを持つことが出来ないのである。

 私たちは聖書の中では、「イスラエルを祝福する者は、祝福される」という神様の選びの約束を見ることができる。今どんなにパレスチナと、イスラエルが紛争をしても、私たちはおいそれと、アラブ諸国の肩を持ってはいけないのである。もっと真実を見なくてはならないし、また歴史の流れの中で、神様のお選びになった民族に対して、決して、のろいの言葉を言ってはならないのである。なぜならば、ユダヤ人に対するのろいの言葉は、神様の選びに対しての、のろいの言葉となるからである。十分気をつけなければいけない。

 神様は、一つの民族をお選(えら)びになった。その理由はヘブル人を通して、全世界に天地万物をお造(つく)りになった創造主なる神様が、この罪深い人類に対していかに大きな愛と憐憫(あわれみ)を持ってくださっているかを、知らせるためであった。ところが旧約聖書を見てわかるように、ユダヤ人(旧約においてヘブル人)は、自分たちは、神様から託されているところの全世界に証人となるというその働きを怠(おこた)ってしまったわけである。神様は繰(く)り返し、繰り返し、何とかして、イスラエルの民が神様に心を向け、礼拝を捧げるように、忍耐をもって導かれた。どれほどイスラエルの人が神様を裏切っても、神様は忍耐をもって、イスラエルの人々を支(ささ)えて来(こ)られた。

 私たちは、歴史の中でイスラエルが奴隷(どれい)の姿になっていくのをみる時、それをあざけってはならない。イスラエルの人々が神様を仰(あお)ぎ望んだ時には、必ず祝福がきた。外敵を追い払われたのである。しかし、彼等が傲慢(ごうまん)になり神様を離れると、神様は周辺の国がイスラエルを攻撃するのを、またお許しになられたのである。聖書は、「神はお許しになった」と書く。そして神様はイスラエルの民が富(と)んでいる時も、貧しい時も、真の創造主である神様をいつも、礼拝することを願っていらっしゃった。そのことは、イスラエルだけではなく、信仰によるイスラエルの子孫であるあなたにも同じ事がいえる。(続)
 


◎暗誦聖句 マルコ伝五章四一節『タリタ、クミ』

本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。