◆ ロマ書の学び(203)
        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年九月二日号
         ▽ み言葉に生きる

 いったんイエス様を信じ救いをいただいた皆さんは、どんなに神様を裏切り、罪を犯すことがあっても、神様に「神様許してください。」とお願いするならば、ただちに神様は、あの放蕩息子をむかえ入れたお父さんのように、心から迎え入れてくださるのである。

 なぜならば神様は、あなたを滅(ほろ)びの中から選(えら)んでくださったからである。かりに自分の息子、娘が自堕落(じだらく)な生活をし、やくざの生活になってしまった、という時に父親は、息子、娘を家に入れてはならないとがんとして言うのである。

 ところが、放蕩(ほうとう)している息子、娘は、お父さんがいない時を狙(ねら)って、そっと台所から、「お母さん、お母さん。」と声をかけてきて、母親は、そっとその放蕩息子、娘を抱きかかえるようにして、必要な物を与えていくのである。まさに神様は、そうした放蕩息子を暖かく迎えてくれるお母さんのような愛を持ってあなたを迎え入れてくださっているのである。

 どんなに私たちが躓(つまづ)いて神様から背を向け、祈ることが出来ない、聖書を読むことが出来ない、説教を聞いても何一つぴんとこない、神様から遠く離れ、冷ややかで堅(かた)くなった心の状態であっても、神様は一度あなたをお選びになった以上、とことん、あなたを支(ささ)え導いてくださるのである。

 旧約聖書の歴史をみると、なぜ神様がイシマエルでなくしてイサクをお選びになったのか、なぜ神様はヤコブを愛しエサウを憎まれたのか。様々な過去の歴史の中で使徒パウロは、神様の選びについて沸々(ふつふつ)とわき上がってくる疑問をここに書き連ねる。イスラエルの人々は神様に選ばれた者として、出エジプトの中からわかるように、個人個人が真の神様を仰ぎ望んで救いを得るということを示された。

 「神様の子供とされる」ということは、自分の選びではなく、神様の側から選ばれた者であるということである。ティーン・エィジャーが親の言うことを聞かなくなる、親に反抗するようになってくると、汚い言葉で「俺は生まれたくて、この家に生まれたんじゃねえよお」と言う。確かに私たちは、自分で生まれたくて生まれて来たわけではない。けれども、「神様の選び」という私たちの理解できないところで、私たちがこの地上に生まれてくる前から、救ってくださるご計画がある。

 誰でも、どのようなふしだらな、みだらな生活をしている者であっても、イエス・キリストを仰ぎ望むなら、神の家族の一員とされ、神の子供とされるという約束がある。それはイスラエルの人々に与えられた「選びの教理」に付随するものである。そのことが実は、旧約聖書の出エジプト記四章二二節、新約聖書ではヨハネ伝一章一二節、ロマ書八章一五節に書かれている。
                    (続く)

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