◆ ロマ書の学び(204)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年九月九日号
         ▽ み言葉に生きる

子とせられたる者の霊を受けたり、これによりて我 らはアバ父と呼ぶなり。=@   ロマ書八章一五節

 エジプトを出たイスラエルの人たちは、昼は雲の柱、夜は火の柱によって導かれて進んだ。神様は神を信じる者達に対して、いつもご臨在を表してくださる。

 三番目に神様は、神様のお選びになった人々と契約を結ばれた。

 アブラハムやモーセを通して、あるいはダビデに契約のお言葉をあたえられた。新約時代には、ヘブル書八章八〜一三節にある「恵みの契約」である。

 私たちがたとえ知らなくても、神様はイエス・キリストを信じたあなたを神様の契約の中に入れてくださったのである。しかも、それは皆さんを不自由にがんじがらめにする契約ではない。神様の契約は、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れた者は、どのような罪を犯す者であっても、神様に「ごめんなさい。」と悔い改めるならば『赦されるという約束』である。

 私たちは何一つ良いことができない状態にあろうとも、寝たきりの状態で身動きができず、神様に献金もできない、奉仕もできない状態であっても、神様は私たちを、イエス・キリストの流してくださった血潮(ちしお)の故(ゆえ)に受け入れてくださる、という約束なのである。

 私たちが正しい行ないをしたとか、親切なことをしたとか、たくさん寄付をしたとか、献金をしたとか、何時間お祈りをした、とかではないのである。あくまでも神様の選びは「イエス・キリストの十字架における契約」である。

 イスラエルの人々は神様から、幕屋、さらには神殿という形で、神様との親しい交わりをいただくことのできる道を示された。イエス様は、新約の時代において、幕屋、神殿という特定の場所ではなく、私たちがどこにいても、そのいる場所において、神様を礼拝することができる道を開いてくださった。なぜならば、皆さんはそれぞれが、聖霊が宿ってくださる宮だからである。

 「神様の宮」であるこの体ゆえに私たちは神様が与えられた聖霊の宿る体を汚(けが)してはならない。暴飲暴食をしたり、酒だ、たばこだ、と自分の体を汚していくならば、神様のお住まいになる清らかな宮を汚すことになるのである。クリスチャンは強制的ではなく、自分の意志で汚れた物から遠ざかって行こうとする。それは、聖霊の宮であるこの体を汚してはならないと考えるからである。      (続く)

◎ 暗誦聖句 箴言二〇章二三節
二種(ふたくさ)のふんどうはエホバに憎まる。虚偽(いつわり)の權衡(はかり)は善(よか)ら ず 。

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