◆ ロマ書の学び(205)
使徒パウロは、イサクとイシマエル、ヤコブとエサウ、そのほかの人物を通して、神の「選びの教理」の奥行きの広さ、深さ、というものを書き連ねてきた。同時に、神様に敵対行為を持ったエジプトの王パロについても言及している。神学校で勉強する学生達はここで悩むのである。なぜパロは、モーセに対してあれほど突っかかっていったのだろうかと。 ある人は、こう考えるだろう。ユダは一二弟子の一人であったが、銀貨三〇枚でイエス様を売ってしまい、裏切り行為をした。「ユダは、イエス様によって、イエス様を裏切るように選ばれたのではないか。だから選ばれたユダは必ず天国に行くに違いない。」と。しかし、この考えに対する聖書の答えは明らかに「NO(ノー)」である。ユダには、悔い改めの機会がいくどもあった。 イエス様が最後にユダの目をじっとご覧になり、お話になっていた時にも、ユダはこれからしようとすることを見すかされていたわけであるから「イエス様ごめんなさい。」と言って、そこで悔い改めることが出来た。しかし、彼はそうしなかった。彼の肉の思い、欲深さの罪の方が、はるかにイエス様の顔を拝するよりも強くなったのである。 一九節からこの「選び」ということを考えてみたい。器という物は、できが悪いからといってぽんと捨ててつぶしてしまうこともできる。器を作るときには年月がかかる。小さな器でも、茶器でも大変な値段である。陶器師は、自分が気に入るまで、何百個、何千個をつぶしてしまうとか。たった一個、それが歴史的に有名な陶器となって残るのである。 神様は、一億二六〇〇万人という中から、あなたを選んでくださった。なぜであろうか。本来ならば、私たちはポーイと放り投げて踏んづけられても差し支えないような、器なのである。この教会は最高の人たちの集まりと言えるであろうか。 ある有名なパン会社の会長がクリスチャンで、その教会には一つ三〇万円もする飾りがたくさん寄付されたそうである。多額の献金をする会長、社長がいるとすばらしいと思う。でも私は、犠牲を払って、痛みを伴って、食べるものを削って、一生懸命、毎週のように献げてくださった五百円、一万円、五万円という金額の献金によって建てられたこの建物は、はるかに神様に喜ばれると思う。私たちは誰かが建てたところへ行くのではなく、自分達が神様を愛する愛のあかしとして、献げたのである。
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