◆ ロマ書の学び(207)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年九月三〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 二〇〇一年の六月アメリカのミシガン州で、根本主義バプテストの交わりがあり、そこで、決議されたことである…神の卓越性について。根本主義者は、生ける神様の卓越性に付いて、鮮明な思いを新たにする必要がある。

 多くの人々は、創造主である神を、優しい神、誰とでも仲良くなれる神と考えてしまう。悲しむべきことに多くの人々は神様と大変親しげに、むしろ神を自分の召使いのようにして、自らが主権者となっている。我々は、神が絶対的な統治者で、尊厳を持つお方であることをここに確認する。人間は自分の力で物事を決(き)めようとする、そうした人間の生き方に対して、我々は神の主権、神の尊厳を改めて確認するものである。まさに使徒パウロはこのロマ書において、そのことを教えていると思う。

さらば汝あるいは我に言わん『神なんぞなお人を咎(とが)  め給うか、誰かその御定(みさだめ)に悖(もど)る者あらん』ああ人よ、 なんじ誰なれば神に言い逆(さから)うか、造(つく)られしもの造り たる者に対(むか)いて『なんじ何ぞ我を斯(か)く造りし』と言う べきか。=@ ロマ書九章二〇節

陶工(すえつくり)は同じ土塊(つちくれ)をもて、之を貴(とうと)きに用(もち)うる器(うつわ)とし、彼を賤(いや)しきに用うる器とするの権なからんや。  ロマ書九章二一節

もし神、怒をあらわし権力(ちから)を示さんと思(おぼ)しつつも、なお大(おおい)なる寛容をもて、滅亡(ほろび)に備(そなわ)れる怒の器を忍び、また光栄のために預(あらか)じめ備え給いし憐憫(あわれみ)の器に対(むか)いて、その栄光の富を示さんとし給いしならば如何(いか)に。この憐憫の器は我等にして、ユダヤ人の中よりのみならず、異邦人の中よりも召し給いしものなり。

    ロマ書九章二二節〜二四節

然らば何をか言わん、義を追い求めざりし異邦人は義を得たり、即ち信仰による義なり。

   ロマ書九章三〇節

イスラエルは義の律法(おきて)を追い求めたれど、その律法に到(いた)らざりき。何の故か、かれらは信仰によらず、行為(おこない)によりて追い求めたる故なり。彼らは躓(つまづ)く石に躓きたり。録(しる)して、『視(み)よ、我つまづく石、さまたぐる岩をシオンに置く、之に依頼(よりたの)む者は辱(はずか)しめられじ』とあるが如(ごと)し。=@     ロマ書九章三一〜三三節

 使徒パウロがここに書いているように、神様は初めイスラエルの民、ユダヤ人をお選びになった。それは異邦人である私たち、ユダヤ人以外の人も神の救いに預(あづ)かることが出来るように、とユダヤ人をお召(め)しになったのであるが、ユダヤ人は神様に反発し逆らった。そしてその結果、神様はパウロを異邦人伝道にお立てになった。全世界に福音が伝えられるきっかけとなったのである。      (続く)

◎ 暗誦聖句  それ人の子の来(きた)れるは、失(う)せたる者を  尋(たず)ねて救(すく)わん為(ため)なり=@   ルカ伝一九章一〇節

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