◆ ロマ書の学び(211)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年一〇月二八日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 使徒パウロは、絶えざる同胞に対する愛、そして、自らがかつてはユダヤ教徒として旧約聖書(私たちが今もっている)を後生大事に勉強し、律法を堅く守ってきた人物であった。その使徒パウロが「私の心の願い、神に対する祈りは、同胞の救われることである。イスラエルの人々が、まことの救い主イエス・キリストを信じて救いを頂くことである。」と、またここでも書いている。

 使徒パウロは、コリント人への第一の手紙一三章の中で愛について書いた。たとえ私たちが予言の言葉を語っても、信仰を強調しても、愛がなければ鳴る鐘はやかましくうるさく響く鐃?(にょうはち)(=シンバル)のようであると表現した。パウロが説(と)いたイエス・キリストに対する信仰、それは四歳の子供でもわかる単純明解な信仰のあかしであった。

 しかし、そのパウロは頭の理解、学問的な理論ということではなく、心から湧(わ)き出てくるような、人々に対する愛の衝動(しょうどう)をもって福音を伝えていった。私達は、クリスマスの案内を配(くば)ったり、日曜学校の宣伝を続けて、子供達を誘(さそ)う。「M先生がうるさいから…。S兄と目が合っちゃったから…。」ではない。皆さんは本当に魂を愛し、一人でも早くイエス様の救いに預(あず)かって欲(ほ)しいという愛と重荷を持って戸別訪問に参加なさると思う。私は、皆さんが奉仕なさるときに神様に対する愛がなくて、強制的になさっているとは思っていない。そして愛をもって参加をする皆さんは、自分だけしかわからないような神様からの特別な祝福、豊かな神様のお取り扱い、ご臨在(りんざい)を味わうことができるはずだ。

 若い頃、私は大変恥(は)ずかしがり屋だった。内向的な性質、人の前ではとても話すことができず、知らない人には声をかけることができないような劣等感(れっとうかん)と恥ずかしい思いで凝(こ)り固まっていた人間だった。それでも神様に祈りながら一軒一軒トラクトを配った。時には目の前でドアを閉められ、「間(ま)に合ってます。」とか、渡したトラクトをクチャクチャと丸められポーンと放り投げられたり、嫌な思い、辛(つら)い思いをしたことも数え切れないくらいある。そういう中にあって私は、「神様、かつては私もそうでした。かつてはあのようにイエス・キリストの御名(みな)をいやしめ、嫌い、遠ざけたりしていました。かつての私もそうでした。でも、神様は必ずいつかは祈りにこたえてくださるはずです。」という思いを持ったものだ。

 私がアメリカで勉強していたときに、三ヶ月の夏休みの間、コロラド州で三〇〇〇軒余訪問した。三ヶ月三〇〇〇軒ということは、一ヶ月に一〇〇〇軒だ。午前中と午後は訪問し、夜は翌日の準備をする。教材を作るなど様々な仕事をしながらやった。       (続く)

◎ 暗誦聖句 詩篇 四九篇九節( )内
霊魂(たましい)をあがなうには費(ついえ)いとおおくして此事(このこと)をとこしえに捨(す)て置(お)かざるを得(え)ざればなり
 

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