◆ ロマ書の学び(212)
訪問した中には、アメリカ人といえども大変キリスト教嫌いな人達がいた。「お前なんか外で凍(こご)えて死んでしまえ。」などと、激しいののしりの言葉を浴(あ)びせられたことも何度かあった。時にはナイフで脅(おど)かされたりして命の危険にもあった。けれども、神様の御(み)言葉をのべ伝える時に、本当に魂に対する重荷を持ち、人々が救われることを祈りつつ愛をもって接する時、多くの人がイエス様を信じるという実(み)を見ることができた。 私達は、福音をのべ伝えて反対が全く起きないということはありえないと考えて良いと思う。多くの思想家や有名な人物が、真理をのべ伝えるということに対する一般社会の抵抗(ていこう)の強さを、短い言葉で表している。「この社会はあなたが真理をのべ伝えるとき、牙(きば)をむいてあなたにかかってくる。」とか、「真理は行く先々であなたに強いしっぺ返しを仕掛けてくる。」 多くの殉教者が歴史の中に名を連(つら)ねてきた。しかし神様の福音は、決して迫害をされ、聖書を没収された、というところで終わっていない。「殉教者の血は、明日の教会を作る」と、言われている通りである。皆さんは「トラクト一枚を配(くば)ったところで何のことがあるだろうか。」と思うかもしれないが、世間には教会に行きたくてもいけない人がいて「そうだ!このチラシに出ている番号に電話して聞いてみよう。」という方達がバイブル・タイムを聞いてくださっているのだ。「先週配ったのに、一人も教会に来なかった。反応がなかった。」と、思わないで頂きたい。神様はいろいろな形で人々の心に語ってくださっている。 ユダヤ人は大変熱心に神様のお言葉を伺(うかが)い求めようとしていった。けれども、使徒パウロはイスラエルの人々が大変熱心であることは認めるが、それが正しい知識によっていないことをここで書いている。自分の生活の中で義をひけらかし、「私は隣の人よりも、友達よりも、はるかに神の前に正しい生活を送っている。」というような見せびらかすような信仰生活、これが旧約時代のユダヤ人であり、ユダヤ教徒であるとパウロは書いているのである。 神の義を知らず、己(おのれ)の義を立てんとして、神の義に服(したが)わざればなり。キリストは凡(すべ)て信ずる者の義とせられんために律法(おきて)の終(おわり)となり給(たま)えり。=@ ロマ書一〇章三、四節 この終わりとなったということは、全てが終わったということではなく、完成したということである。イエス・キリストは律法を完成させてくださった。パウロは人々に、「膝(ひざ)をかがめて真の神様のところに来てください。」と、一生懸命語り、訴えた。 (続く)
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