◆ ロマ書の学び(213)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年一一月一一日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 更にイスラエルに就(つ)きては『われ服(したが)わずして言いさからう民に終日(ひねもす)手を伸べたり』と云(い)えり。
                ロマ書一〇章二一節


 神様は四六時中、手を差(さ)し伸べて「私のところに来なさい。私のもとに来なさい。」と、招いて下さっているという。私達はものの一分も手を前に差し出していられない。すぐに手が重くなって下がってくる。でも神様はいつまでも手を差し伸べて「私のところに来なさい。」と、招いていてくださる。パウロは、人々が神様の前に膝(ひざ)をかがめてくるように、一方神様の側では「私のところに来なさい。」と、言って手を差し伸べてくださっているという。二節に気になる言葉がある。

われ彼らが神のために熱心なることを証(あかし)す。されど其(そ)の熱心は知識によらざるなり。=@

 熱心さは、その人のまじめさ、誠実さを表す。以前、参議院選挙で、大仁田というプロレスラーが当選した。私にはどうして彼が当選したのかわからないが、彼は当時、夜間高校に通っていた。彼はどこに行っても、猪木(いのき)張(ば)りに大声で熱心に訴えた。彼が何を信じ、何を考えているか全然わからない。でも人々は、彼が出て行っては熱心に呼びかけた、その熱心さに応(こた)えたのだ。このように人は、内容が分らなくても、熱心であればその熱心さに、つい心がほだされて投票してしまう。

 多くの若者が、なぜカルトや、間違った宗教集団に誘(さそ)われていくのか。それはカルトの人々は街頭に出て、熱心に口角泡(こうかくあわ)を飛ばすようにして人々に勧誘するからだ。あるいは、駅前でキャッチセールスをする人達は人を捕まえて一生懸命売り込む。すると、はじめは「結構です。」と言っていた人も、ついには三〇万も四〇万もする物を買ってしまう。それは彼らが熱心だからだ。今日のクリスチャンに求められるのは、実はこの「熱い心」ではないかと思う。漢字ではとてもいい表現だ。英語のzealの中にはそれほどの意味は含まれないが、漢字では、まさに熱している心、熱くなっている心という。

 熱心に訴えかけると、段々と体が熱くなってくる。やはり心が熱くされないと伝道できない。冷たい心であると、人々はなかなか証を聞いてくれない。けれどもパウロはここで注文をつけた。「イスラエル人の熱心さは正しい真理によっていない。彼らの熱心さは、確かな聖書の知識理解にのっとったものではない」と言った。
残念なことに、相撲取りやタレントの多くが踊る宗教だとか、様々なカルトに入っていた。    (続く)

◎ 暗誦聖句 エペソ五章一八節
むしろ御霊(みたま)にて満(み)たされ=@     

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