◆ ロマ書の学び(214)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年一一月一八日号
         ▽ み言葉に生きる

 クリスチャンは、異端の人たちが間違った教えを熱心に広めているのを、ただ指をくわえて見ているだけではいけない。彼らは大変熱心で、命がけであるのに、クリスチャンはあまり熱心でない。

 非常に冷静であるというか、もっと端的に言えば、冷淡である。人々に対して冷淡で、救霊に対して重荷を持たない。自分が救われたら、教会に来て隅(すみ)っこのほうに座っていればそれで満足、という「自分さえよければそれでいい」という姿では到底(とうてい)、家族や友達に対して証(あかし)をすることはできないと思う。

 私たちは、正しい信仰の対象、真の神様をしっかりと心にお迎えしなければならない。ヨハネは福音書の中で霊と真(まこと)とをもって神様を礼拝しなさい=i四・二四)と書いている。霊というのは、「自分の全身全霊、全精力をもって」であり、真というのは、神様の真理である。熱心であるだけでなく、その熱心さが神様の真理のお言葉に根ざした発露(はつろ)でなければならない。真理の上に成り立ったところから湧き出てくる情熱でなければならないという。私達は真理のために命をかけることができるだろうか?

 芸術家は、自分の絵に対し、建築物に対し、彫刻に対して命をかける。誰かがその芸術家の作品をけなすならば、命がけで戦っていくだろう。ところがクリスチャンの場合は、他の人から非難をされてもカアーッとなって立ち上がっていくことがない。ヘラヘラと笑って過ごしてしまう。どうせ彼らに説明してもわからないからといってニヤニヤその場を立ち去っていくというのが多くの例ではないだろうか。

 あの九・一一のテロ事件のあと、マスコミは多くのクリスチャンの心を突き刺(さ)すような非難の言葉を書いた。過激派イスラム教徒をさすのと同じ単語を用いて聖書信仰に立つ人々を非難した。ところがほとんどのクリスチャン、ほとんどの牧師達、宣教師達は何一つ抵抗を示さなかった。私達はこの教会から、百人の伝道者と宣教師に対して「立ち上がってください。」と呼びかけた。しかし、私の知る限りでは四人しか反応は出なかった。なぜ、伝道者が、宣教師が、自分達やイエス様の名が汚(けが)されるのに立ち上がろうとしないのだろうか。自分だけ真理を持っていればそれで事(こと)足りるという、そういう生(なま)ぬるい、冷たい、冷(ひ)ややかなクリスチャンが日本には有(あ)り余るほどいる。私達はもっと、真理のために命をかけなければいけない。あなた自身が、イエス・キリストの十字架のゆえに命をかけ、真理のために熱い心を持つということがどんなに大事であるか、黙示録に記されている。   (続く)


◎ 暗誦聖句  詩篇三四篇一五節

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