◆ ロマ書の学び(215)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年一一月二五日号
         ▽ み言葉に生きる

われ汝の行為(おこない)を知る、なんぢは冷(ひやや)かにもあらず熱(あつ) きにもあらず、我は寧(むし)ろ汝が冷(ひやや)かならんか、熱(あつ)か らんかを願う。かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、 ただ微温(ぬるき)が故に我なんぢを我が口より吐(はき)出(いだ)さん
           ヨハネ黙示録三章一五〜一六節

 生ぬるい信仰のクリスチャンがあまりにも日本には多い。だから、日本は一億二千万人を超える民族の中でクリスチャン人口は一〇〇万人になっていない。五〇万人にもなっていない。そんな少ない人数しかいないというこの現実はなぜだろうか。「頭だけの信仰」で満足しているユダヤ人と同じだからだ。「熱心さ」がないのだ。私は他の宗教の人達が、熱心に折伏(しゃくぶく)をしたり、あるいは街頭で伝道しているのを見ると恥ずかしいと思う。

 クリスチャンである私は、あれほど燃えることがないのだろうか、なぜ習志野のクリスチャンはこれほど燃えないのだろうか、と思う。私自身が冷たい炭であるかもしれない。でも、小さな消えかかるような炭であっても私はとにかく毎日全力を尽くして投球している。まわりからは「牧師、休みを取りなさい。」と言われるが、私は一年中休みなしで朝から晩まで動いている。時々皆さんが奉仕に来てくださる。トラクト配布に来てくださるのを見ると心が痛む。「私も行きたいなあ。」と……

 でも、土曜日も他の日も朝からびっしりスケジュールが入っていて、それ以上さくことができない。休みがないのだ。でもそれは決して苦痛ではない。牧師夫人にとっても、牧師がいつもガチャガチャ動いていると休みにはならないだろう。しかし感謝なことに、家内も献身しているので一言も文句を言わない。私達は神様のご用に熱心になって喜びがある。疲れていても、寝ることよりも神様のお仕事を続けるほうが喜びなのだ。この体が燃え尽きるまで、私達は神様のために熱心でありたいと思う。それにより天国へ行くためではない。神様に救われて、この世から別れる時に行く場所は既に決まっているからだ。私と家内のためにもう約束された予約席はある。安心してこの地上において毎日伝道することができる。

さらば何と言うか『御言(みことば)は、なんじに近し、なんじの口にあり、汝の心にあり』と。これ我らが宣(の)ぶる信仰の言(ことば)なり。即(すなわ)ち、なんじ口にてイエスを主と言いあらわし、心にて神のこれを死人の中(うち)より甦(よみがえ)らせ給(たま)いしことを信ぜば、救わるべし。
              ロマ書一〇章八節、九節
この聖句の意味についてみていきたいと思う。(続)


◎ 暗誦聖句 エレミヤ哀歌三章二七節
人わかき時に軛(くびき)を負(おう)は善(よ)し。

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