◆ ロマ書の学び(218)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇七年一二月一六日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 酋長(しゅうちょう)はびっくりして「あと六ヶ月、滞在を許可しよう。」と言った。宣教師はさらにバタックの人々に「イエス様を信じるならば、自分達がこれまで実際に行うことができなかった厳(きび)しい、難しい社会のおきてを守ることができるようになる。神様は人間が背負いきれないような重荷を負わせる方ではない。」と、説(と)いていった。やがて約束のときが来た。酋長は宣教師に「一生ここにいて、神様の言葉を伝えて欲しい。」と、頼(たの)んだという。今から二〇数年前(古い統計であるが)、インドネシアのバタック民族の中で四五万人のクリスチャンの教会が建てられているという。

 私達は、初めは困難だ、難しい、誰も受け入れてくれないと思うかもしれない。けれども、実際にインドネシアに行けばバタック族の中にクリスチャンは多い。小さな例であるが、皆さんがお配りするトラクト、流山の方々は流山で配るトラクトが用いられて一人救われ、また別の人が救われてくる。大事なことは、「自分さえよければ」ではなく「同胞(どうほう)に対する愛」である。自分が今住んでいる場所、働いている職場、自分が与えられている家族に熱い愛と、祈りをもって接することではないだろうか。

兄弟よ、わが心のねがい、神に対する祈りは、彼らの救われんことなり。=@     ロマ書一〇章一節

 使徒パウロはイエス・キリストの真理に心を溶(と)かされ、それまでなかったような同胞に対する熱い愛で燃やされていった。私たち一人一人も、聖霊の満たしをいただき、イエス様のことを証(あかし)するときに神様から力を頂こう。「この命は私のものではありません。神様のものです。神様の御用のためにお使いください。手も足も口も体も、すべて神様、あなたのご自由にお使いください。」と愛する兄弟、姉妹、一人一人が神様に自らをおささげしようではないか。どんなに断(ことわ)られても、激しい憤(いきどお)りの反発を受けても、愛をもって伝道と、あかしを続けていこうではないか。

聖書にいう『すべて彼を信ずる者は辱(はずか)しめられじ』 と。ユダヤ人とギリシャ人との区別(くべつ)なし、同一(どういつ)の主(しゅ)は 萬民(ばんみん)の主にましまして、凡(すべ)て呼び求むる者に対して 豊(ゆたか)なり。『すべて主の御名(みな)を呼び求むる者は救(すく)わ るべし』とあればなり。然(さ)れど未(いま)だ信ぜぬ者を争(いか)で 呼び求むることをせん、未(いま)だ聴(き)かぬ者を争(いか)で信ずる ことをせん、宣伝(のべつた)うる者なくば争(いか)で聴くことをせん。 遣(つかわ)されずば争(いか)で宣伝(のべつた)うることをせん『ああ美(うるわ)し きかな、善(よ)き事(こと)を告(つ)ぐる者の足よ』と録(しる)されたる如(ごと) し。=@ ロマ書一〇章一一〜一五節                  

(続く)


◎ 暗誦聖句 ヤコブ書一章五節 

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