◆ ロマ書の学び(220)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年一月一三日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 子供の頃、日本が戦争する時には、太平洋戦争では神風(かみかぜ)が吹く”と教えられたが、神風は吹かなかった。そして私達は、敗戦という大変辛い時期を過ごしてきた。その頃、東京や大都市では多くの宣教師が大型バスの屋根にはしごをかけてのぼり、大きなスピーカーでイエス様のことを伝えた。渋谷の駅前では、頻繁(ひんぱん)にやっていた。側に寄っていくと、「どうぞ!どうぞ!」と言って、小さなポケット聖書をくれた。ヨハネ伝だとか、マタイ伝の分冊をくれた。

 当時の分冊にはちゃんと説明が書かれていた。例えば初めに言葉あり。言葉は神と共にあり≠ニはどういうことかの説明がされていた。そういうのを見て、私は「アメリカはすごい国だなあ。」と思った。学校の先生が「アメリカ人は鬼畜生だ!」と言って軽蔑(けいべつ)していたのに、戦争が終わると同時に、日本人に食べ物をくれた。心が飢え乾いた時に聖書をただでくれた。

 第二次世界大戦直後、ジープが来ると「ギヴミーガム。ギヴミーガム。」と言いながら子供達はみんな追いかけたものだ。英語の意味など分らないのに、滅茶苦茶(めちゃくちゃ)な英語でガムをもらいに集まってた時代だ。そんな中にあって宣教師は聖書の分冊を配(くば)っていた。そのためか、どの家庭にも聖書が一冊はある、という時代があった。私の父親は仏教徒であったから、私がクリスチャンになることに反対し、更に、「牧師にはなるなよ。」と言った。

 戦争が終わりに近い時期のある日、私が家を整理していると、何と押入れの奥から新約聖書が出てきた。戦後、宣教師からもらった聖書ではなかった。不思議に思った私は母に聞いた。「どうしてこの聖書が家にあるの。」と。すると母は、「あなたのお姉さんがライオン石鹸で働いていた時に、会社でもらったそうよ。」と言った。ライオン石鹸は、社長がクリスチャンだということで従業員全員に聖書を配(くば)ったようだ。このようにして、日本の各家庭には変な表現だが聖書がばら撒(ま)かれた。

 戦後、宣教師がアメリカの宣教団体本部に書いたリポートを読んでアメリカの人達は仰天(ぎょうてん)したという。イエス様を信じるという日本人の数を合計したら二億何千万となり、日本の人口よりもはるかに多くなってしまったからだ。何も分(わか)らないまま、ただ聖書をもらいたいからと手紙を出したり、ラジオの福音放送を聴(き)いて手紙を出せば聖書を無料でくれるというので、とりあえず手紙を出したというのが多かったようだ。日本の人口の二倍以上、人々は聖書を求めた。けれどもそういう中にあって、神様の私たち人間に対する語りかけ、メッセージを、どれほどの人が本当に正しく受け止めたかというと、残念ながら今日のクリスチャンの数を見ればわかる。       

              (続く)


◎ 暗誦聖句 サムエル前書十五章二二節
それ従うことは犠牲にまさり、聴くことは雄羊の脂に まさるなり

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