◆ ロマ書の学び(221)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年一月二〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 九節には、あなたが自分の口でイエスを主(しゅ)と言いあらわすならば……≠ニある。ということは、イエス様を信じる決心をし、イエス様を心にお迎えした人は自分の口で「私はイエス様を信じています。私はイエス様を信じて、恐ろしい罪(つみ)の責(せ)め苦(く)、神様のさばきから逃(のが)れることができるようになりました。」と、あかしすることだ。

 さらに、心で信じて義とされる≠ニいうことは、万物の創造主である神様が、私たちを迎え入れて下さり神ののろい、さばきから逃れる道を開いて下さったということだ。すべて彼を信ずる者は辱(はずか)しめられじ≠オかもそれは、ユダヤ人とギリシャ人とを区別をしない、と。ここで新約聖書に使われる「ギリシャ人」という表現は、実はギリシャ人だけではなく、神様によって選(えら)び出されたユダヤ人以外の、すべての民族を指(さ)す。

 ユダヤ人は神様から律法(りっぽう)を与(あた)えられ、選(えら)び出され、神様に特別の憐(あわ)れみと力を頂(いただ)いた民族である。ユダヤ人は「律法を知らない民族は呪(のろ)われるべき者である。神様の律法をもっていない人々は呪いを受くべき者達だ。」と異邦人を軽蔑(けいべつ)した。そのことはいまだに続いている。だから世界中の人々からイスラエル人は憎(にく)まれている。私たちはイエス様を信じるという時に、ユダヤ人、イスラエル人と違った意味で「私は滅(ほろ)びの中から、神様によって選(えら)び出された。」ということを強く思う。同一の主は、萬民(ばんみん)の主にまします≠フである。

 ユダヤ人をお救いになる神様は、その他の者、すなわち日本人である私達、あるいは、ヨーロッパ、アフリカ、南米、アメリカに住む者であっても誰でもお救い下さる。「すべて」に対する英語”whosoever(誰でも)”はここで二回繰(く)り返されている。この言葉一つあげても、大変な慰(なぐさ)めだと思う。仮(かり)に字の読めない人、「先生、私は署名(しょめい)ができません。」というような文字を習ったことのない人であっても、「誰でも」という中に入る。

 私が若い頃、タイのバンコックに宣教の視察(しさつ)に行った。メコン川の流域を船でずっと上って行ったり、バンコック市内でも教会に出席した。その当時、タイで宣教をしていた日本人宣教師が教えてくれた。「タイには文字のかけない人が大勢いて、自分の名前も書くことができない人も大勢います。でも、こういう人達であっても私たちが『人間はみな罪人です。』と言うと、『よくわかる。』と言うのです。」と。たとえ字を書くことができなくても、文字を知らない人達であっても、人間の心の中にひそむ罪は良くわかるのだ。      (続く)


◎ 暗誦聖句 テモテ前書一章一五節「 」内

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