◆ ロマ書の学び(222)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年一月二七日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 皆さんよくご存知のように、タイという国は仏教の大変盛んな国だ。街中を歩いていると、黄色い僧服を着た修行僧であふれている。仏教徒の国であるタイでは、すべての男性は一年に一ヶ月以上、寺にこもって修行(しゅぎょう)をしたり、町を歩いて日本でいう托鉢(たくはつ)をして食べ物を求めて歩く生活をするという。こうしてタイの人達は、仏教の世界で修行をする。

 日本では人間が死ぬと戒名(かいみょう)をもらうが、もともと戒名はそういう意味ではない。戒名は、タイの人達のように修行をした人に対して、「あなたはこれだけの修行をしましたので、戒名をさずけます。」と、生きているときに与えられるものだ。

  いわば階級であるから、どれほどの修行をしたかという資格認定が戒名である。日本では、何十万とか、何百万円払えば高位の戒名がつけられ、位牌(いはい)に書かれるとか。おかしなことだと思う。

 人間はどんなに学問を身に着けても、心を変(か)えることはできない。それでは、道徳で人間は変わることができるか、というと道徳でもまた人間は変わらない。なぜなら、道徳は外側から人間を押さえ込もうとする。しかし、人間の生き方は内側から出てくるものである。内側が新しく変(か)えられなければ、外側は正しくなってこない。

 皆さんがそうだという意味ではないが、聞いていただきたい。仮に、お互いの意見がぶつかってケンカをする。その時に、ケンカをする人達はどんな言葉使いをするだろうか。その人達は、始めからのろいの言葉は使わない。初めは馬鹿丁寧(ていねい)な言葉を使い、憎しみを馬鹿丁寧な言葉で隠(かく)そうとする。

 どんなにきれいな言葉を使っても、心の内側にある憎しみの感情を消すことはできない。高い教育を受けても教育を受けなくても人間は同じように救われない。聖書は、神様に選び出されたユダヤ人、イスラエルの人達だけではなく、世界中のあらゆる民族が、まことの神様を礼拝するように、と教えている。

 同一の主は、萬民(ばんみん)の主にましまして=@。みなさんは『主(しゅ)』という言葉を、どのようにお考えだろうか。主イエス・キリストという、その『主』だ。

 日本ではダンナ様のことを良く「家の主人は…」と言う。奥さんがダンナ様のことを尊敬しているかどうかはわからない。「家のバカ亭主は…」と言われるよりは「主人」のほうが良い。しかし本来『主』という言葉は大変格調高い言葉である。英語ではLordと書く。イエス様をあらわすときには、必ず大文字でLを書き、神を表すLordとする。          (続く)


◎ 暗誦聖句  ヨハネ伝一章四一節「 」内。

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