◆ ロマ書の学び(223)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年二月三日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 アブラハムの妻サラは、アブラハムのことを「主(しゅ)」と呼んだ。「牧師がうるさく言うから、家の亭主に従わなきゃ。」という思いで、ご主人に従っているのであれば大間違(まちが)いだ。やはり、神様がお立てになった家庭内の秩序(ちつじょ)としてご主人を敬(うやま)う、ということが大切だ。

 「だって先生、家の主人は信仰を持っていないから従えません。」という抵抗があるかもしれない。けれども、たとえ信仰を持っていないご主人であっても、あなたにとっては神様がお立てになった家長であるから、ご主人を敬うということが大切である。できる限りご主人に従って助けていくことが大切だ。信仰的にどうしても従えないこともあるだろうが、祈ることだ。

 それでは、『主』という言葉の反対、対角にあるのはどういう言葉だろうか。妻、婦人ではない。それは『奴隷(どれい)』である。奴隷は、自分の雇(やと)い主(ぬし)、あるいはご主人に対して「わが主よ。」とか、「ご主人様。」と、言わなければならない。

  私達はイエス・キリストの御前(みまえ)にあって、「私自身が奴隷であります。」という思いを持ったことがあるだろうか。奴隷は自分の自由を持たない。お腹(なか)が空(す)いたからといって、ご主人の家の冷蔵庫の食べ物を食(た)べることはできない。あるいは、寝たいからといって、その辺にゴロンと横になって寝ることはできない。自分の自由を全く持たない、これが奴隷である。

 クリスチャンはイエス様を自分の主として仰(あお)ぎ、迎え入れる時に、「私の生命も、人生も、時間も、あらゆるものはあなたのものです。」と神様に申し上げる。これが、イエス・キリストを仰ぐ、ということである。ということは、自分にどのような経験があるとか、どのような勉強をしてきたか等(など)は一切(いっさい)抜きにする。

 神様の御前にあって「私は愚(おろ)かな僕(しもべ)です。価値のない奴隷です。」という心の状態をイエス様は「山上の説教」で、幸いなるかな心の貧しき者。≠ニおっしゃった。全能の神様の御前にあって、「私は全く無力です。自分自身では自分の心を抑(おさ)えることができません。怒り、ねたみ、悩みなどの思いを抑えることができません。」と認めよう。

 ソロモン王は箴言(しんげん)の中で、人が自分の心を収(おさ)めることができるのは、一つの城を攻め取るにも愈(まさ)る。=i一六・三二)と書いている。難攻不落(なんこうふらく)の城壁を陥落(かんらく)させることは大変な仕事だ。

 旧約聖書において、エリコの城壁を崩(くず)したように実に大変な労力を使う。ソロモン王は自分の心を収めることができる者は、一つの城を攻め取る者にも優(まさ)ると言った。ということは、自分ではできない、という意味である。私達は生まれつきの状態では神様に喜ばれることはできないし、また、自分自身を訓練して上達させることもできない。  (続く)


◎ 暗誦聖句 ヨハネ伝二一章一六節はじめの「 」

本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。