◆ ロマ書の学び(224)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年二月一〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  すべて主の御名(みな)を呼び求むる者は救わるべし。
               ロマ書一〇章一三節
 誰でも、どこにいる人であっても、若い者でも、子供でも、年をとった人であっても、健康な人間であっても、病気を抱(かか)えた人でも、男性も女性も、あらゆる人間が、神様によって救われる、というのである。

 では、その方法は?

 もし、「私たちが五百万円を払(はら)うならば永遠の生命を神様からいただくことができます。」と言われれば、たぶんみなさんは一生懸命働いて五百万円貯(た)めることだろう。五百万円、ようやく一人分が貯金できた。「今度はお前の分だ、もっと働く。」と言っているうちに、不景気(ふけいき)でご主人の収入が途絶(とだ)えてしまったというような場合はどうするのか。奥さんは中途半端(はんぱ)にぶら下(さ)がってしまう。しかし、神様の救いには、そのようなことはない。

噫(ああ)なんぢら渇(かわ)ける者ことごとく水にきたれ。金なき者もきたるべし。…=@    イザヤ書五五章一節

 イザヤ書には金のない者も来(き)たれ。≠ニ書いてある。お金のない者も来(き)なさい。

だれでも呼び求めるならば
 仮に、私が歩いている時に、O兄弟が、「先生!」と呼び、私が「はい!」と答える。「呼び求める」とは、これだけである。O兄弟は席に座(すわ)っていて何もしていない。ただ声を出して牧師を「先生!」と、呼んだだけだ。そして、「はい、何ですか。」と答えるのは私だ。それと同じことをイエス様がやって下さったのだ。

 イエス・キリストを呼(よ)び求めるならば、イエス様はちゃんと立ち止(ど)まって下さる。らい病人が癒(いや)され、足なえが癒(いや)されたように、経済的に苦しんでいたやもめが必要な物を与えられたように、だれでも「イエス様!」と、呼び求めるならば、声を上げるならば、イエス様の側(がわ)から近づいて下さる。そして、救いを与えて下さる。どうしてそれが可能だろうか。それは、イエス・キリストがこの人間の世界に下(くだ)ってこられたからだ。

はじめに言(ことば)あり、言は神とともにあり、言は神なりき。…言は肉体となりて我らの中に宿(やど)り給えり、…
          ヨハネ伝一章一、一四節

 イエス・キリストは万物をお造りになった創造主でいらっしゃる。そのお方が、私たちが自分の力でどうすることもできない時に、私達を救うためにおいで下さった。私は寝たきりの病人です、という人であっても、「イエス様」と、呼び求めるならば救われるのだ。
(続く)

 


◎ 暗誦聖句 イザヤ書一章一八節
エホバ言い給わく、いざわれら共にあげつらわん、汝 らの罪は緋(ひ)のごとくなるも雪のごとく白くなり…

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