◆ ロマ書の学び(225)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年二月一七日号
         ▽ み言葉に生きる

 

   イエス様が十字架につけられた時、その両脇(わき)に強盗がつけられた。一人の強盗はイエス様をののしった。もう一人の強盗は、「イエス様、私のことを覚(おぼ)えて下さい。」と、お願いをした。たとえ彼が救われても、十字架から飛び降りて一生懸命イエス様のために働(はたら)けるわけではない。もう死を目前(もくぜん)にしているのだから…。あと、一、二時間で息は絶(た)える。それでも「イエス様!」と呼(よ)びかけた時に、イエス様は「今日あなたは、私と共にパラダイスにある。」と、おっしゃった。

 どんなに体が不自由であっても、勉強ができなくても、学校ではないから幸(さいわ)いだ。学校なら、勉強ができないと落第(らくだい)ということもある。でも、イエス様の救いに落第はない。お金は必要ではない。「イエス様!」と、呼び求めるならば救われる。「福音」というのは、「良い知らせ」「良いおとずれ」という意味だ。これが、クリスマスのメッセージである。世界中、どんな民族であっても、どこにいようとも、貧しくても、お金持ちであってもだれでも、イエス様を呼び求めるならば救われる≠ニいう、全く単純な、誰にでもできることである。

   様々な事故のために口を利(き)くことができない人がいた。その人は、自分の心にわいてくる色々な歌、自然のこと、人間社会のことなどを何とか残しておきたいと思って、瞬(まばた)きで介護(かいご)をする人に自分の意志を伝達(でんたつ)する「まばたきの詩人」。お聞きになったことがおありだろうか。自分のまばたきだけで自分の意志を伝(つた)え、詩集を作った。人間は声が出なくても、手が動かなくても、まばたきだけでも、自分の意志を神様に知っていただくことができる。「私は、まばたきができません。もう目が見えませんから…。」という方も大丈夫だ。イエス・キリストを心の中で呼び求めても良い。

  人は心に信じて義とせられ≠ニある。だから、人に言うことができない状態にあっても、心の中でイエス・キリストを信じ受け入れるならば救われる。お金は一銭も要(い)らない。教養も必要ではない。神様の救いは、ただで、誰(だれ)にでも、世界中どこにいようともすべて呼び求める者≠ノ豊(ゆた)かである。豊かであるということはどういうことか。仮に、ここにいらっしゃる皆さんに、私が一人一人プレゼントを配(くば)っているとしよう。

   「あっ、ごめんなさい。ちょっと今回、数が少なくて三人分足(た)りないんです。」ということがあるかもしれないが、神様の救いには決してそのようなことはない。イエス様の救いは誰でも=Bしかも豊(ゆた)か≠ナある。すべて呼び求めた人に豊かである。私たちが抱(かか)えきれないほどの祝福を神様がお与(あた)えくださるという。汝の口をひろくあけよ。われ物をみたしめん。=i詩篇八一・一〇)神様に呼(よ)び求めよう。    (続く)

 


◎ 暗誦聖句 暗誦聖句 使徒行伝一二章五節
かくてペテロは獄(ひとや)のなかに囚(とら)われ、教会は熱心に 彼のために神に祈りをなせり。

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