◆ ロマ書の学び(227)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年三月二日号
         ▽ み言葉に生きる

 

   神様はお選(えら)びになったイスラエルの民を愛してこられた。何度となく預言者や神様の伝道者を通して、警告をお与えになり、ときには人々が悔改め、また神様に戻ってくるという繰り返しがあった。そういう中にあってイエス・キリストをイスラエルの人々は拒み続けてきた。今日に至るまで、イスラエルに住むユダヤ人の多くは、イエス・キリストを救い主である、と信じようとしない。かえって、クリスチャンがトラクト配布するのを禁止したり、イエス・キリストの福音を伝える宣教師やクリスチャンを追放したり、ということをやっている。

 二〇〇〇年前の使徒パウロの時代に、すでにロマ書九〜一一章において克明(こくめい)に書かれている初期の姿であり、今に至るまで続いている現実の姿である。使徒パウロは、もし我が兄弟わが骨肉のためにならんには、我みづからのろわれてキリストに捨てらるるも亦(また)ねがうところなり=iロマ九・三)と激しい情熱を傾け、彼らに迫っている。

この故に神エホバかく言い給う『見よ、われシオンに 一つの石を据(す)えてその基(もとい)となせり。これは試(こころ)みを へたる石、尊(とうと)き隅石(すみいし)、かたく据(す)えたる石なり。
 これに依頼(よりたの)む者は あわつることなし。』

   この旧約聖書のイザヤ書二八章一六節においては英語でも日本語でもあまりはっきりは出てこないが、言語的に考えるならば「一人残らず、誰でも」という言葉が使われているようである。

イエス・キリストを信(しん)ずるに由(よ)りて凡(すべ)て信(しん)ずる者(もの)に與(あた)へたまふ神(かみ)の義(ぎ)なり。これには何(なに)等(ら)の差別(さべつ)あるなし。
      ロマ書三章二二節

   イエス・キリストを信じるすべての者に与えられる神の義には何らの差別もない。男であれ、女であれ、日本人であれ、ロシア人であれ、韓国人であれ、誰であれ、どこの国の人であっても差別がない。「全(すべ)ての人は、神様の前に罪を犯した者であり、みな罪人である。」と神様はおっしゃられるのである。そしてまた、一方において、神様は私たちをお救いになるときに「日本人だけ特別扱いしますよ。」とか「イギリス人だけ特別扱いしますよ。」ということをなさらないのである。

   神様はすべての人を公平に、同じ目でご覧になられる。誰でも自分の心の中に罪、汚れを持っている。自我のもたらす罪、汚れ、その中で最も大きな罪は、人間対人間の関係ではない。神様対人間の関係における罪である。                   (続く)

 


◎ 暗誦聖句 テモテ後書一章七節
そは神の我らに賜(たま)いたるは、臆(おく)する霊にあらず、 能力(ちから)と愛と謹慎(つつしみ)との霊なればなり。

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