◆ ロマ書の学び(228)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年三月九日号
         ▽ み言葉に生きる

 

イエス・キリストを信ずるによりて凡(すべ)て信ずる者 に与えたもう神の義なり。これには何等(なんら)の差別あるなし。=@     
       ロマ書三章二二節

 使徒パウロはロマ書三章で、「ユダヤ人もギリシャ人もない。全(すべ)ての人が罪を犯(おか)したために、神の栄光を受けられなくなっている。全(すべ)ての人間が神の御前には等(ひと)しく罪ある存在である。」と記(しる)した。誰一人として自分の行(おこな)いによって、神様からの愛をいただき、お褒(ほ)めの言葉をいただくことはできない。

 まだイエス様に救われていなかった高校時代、私は聖書を手にするたびに「ユダヤ人は恵まれているし、得(とく)をしているなあ。」と思った。彼らは、神様に選(えら)び出された特別な民である。世界を経済的、政治的に指導している人々の多くがユダヤ系であることを考えても神様がどれほどイスラエルの人々を愛してこられたかが分(わか)る。

 また、私は当時、イスラエルの人たちはきっとイエス様を信じ喜んでいるに違いない、と考えていた。しかし、そうではなかった。いまだにイスラエルの人々はイエス・キリストを信じていない。世界の紛争・争いの大きな原因の火種(ひだね)であるアラブとイスラエルを考える時、多くの人が「イスラム教徒と十字軍(キリスト教)の戦い」と誤解している。しかし、本当は「イスラム教徒とユダヤ教徒の戦い」である。

 ユダヤ人の多くは自分たちをキリスト教徒とは呼ばず「自分たちはユダヤ教徒である。」と言う。アラブがイスラエルと戦っているのは、イスラム教とユダヤ教の戦いであって、決してイスラム教とキリスト教の戦いではない。イスラエルの人々は、いつアラブの過激派によって自分たちの乗っているバスが爆発させられるか、あるいは自分たちの住んでいる所を自爆攻撃され、殺されるかわからない、という危機感を持っている。イスラエルに住む人々は、「平和というものは、決してただで手に入るものではない。水がただで手に入らないように、平和もまた、大変高いお金を出さなければ維持できない。」と言う。

 聖書は、世の終わりに必ずイスラエルの地域、ハルマゲドン(=メギドの丘(ハル))で戦いがある、と記している。これは黙示録にごくわずかに出てくる言葉であるが、ハルマゲドンが世界の最終戦争の地となる預言である。かつて、オウム真理教の教祖がこの言葉を悪用したが、くれぐれも誤解しないでいただきたい。  聖書が教える「真理(しんり)」を学ぼう。    (続く)

 


◎ 暗誦聖句 使徒行伝一章八節A

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