◆ ロマ書の学び(230)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年三月三〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

   「そうですか。あなたは小さい時にお母さんにしかられた時、嘘をつきませんでしたか。」「あー、そりゃあ小さい時は誰だって嘘をつくでしょう。」「あ、一回ですね。それで小学校に入ってから宿題を忘れて先生に嘘をつきませんでしたか。」「まあ、それくらい誰でもやりますよ。」「はい。それじゃあ一回。」このように私は紙を重ねて一回一回と書いていった。だんだん紙が重なってきた。

 「そんなこと、信じられない。」と彼は怒りだした。「信じない、と言ってもあなたが一回罪を犯す度に、こうやって紙を重ねていくと、こんなになるのです。これまで人生の中で数え切れないほど私たちは罪を犯しました。あなたもそうでしょう。」とうとう彼は「うん。」とうなずいた。

 私たちは神様のみ前にあって誰一人完全な人間はいない。特に私たちは自分に関しては、どうしても自分を守ろうとするため嘘をついてしまう。と同時に、人間が自分でいかにも大きくなったように考えて神様を忘れてしまう姿が不従順であり、不信仰である。この不従順、不信仰が聖書で言うところの「罪」である。それは他人には何一つ迷惑をかけていない、かもしれない。

 多くの場合、心の内側に出てくる罪であるから、心の中で相手を憎み、あるいは相手を殺してやりたいほど憎らしいと思っても、心の中にある間は、この世の中の法律では裁くことができない。けれども、人を傷つけたり、盗んだり、殺したりという外に現われてくる犯罪行為だけが罪ではない、と神様は聖書で教えておられる。犯罪は、心の中の罪が大きくなって外に出てきた姿である。

 神様はそれ以前の、心の中に起こってくる「あの家の戸を壊(こわ)して入って、家族を皆殺しにしても差し支えないだろう。おれは必要なんだから。」という思いにまで言及なさるのだ。最近、家に押し入って一家皆殺しにする、というような犯罪が頻繁(ひんぱん)に起こっている。彼らは「どんなに悪いことをしても、自分は裁(さば)かれることはない。」と考えているのである。

 日本にも多くの外国人が入国し、不法滞在をしたり、犯罪を犯したりする者が増(ふ)えている。昨今、東京に住む多くの家庭が、ピッキングの被害にあっている。ドアの鍵をこじ開けられて家中の金品を盗(と)られてしまうのだ。マンションの錠前を換(か)えるには何万円もかかり大変である。ところが犯罪者は捕(つか)まると平気で言うのである。「日本人は金持ちなんだから、そういう金持ちから盗んで何が悪い。」と、これまた自分さえよければという姿であり、国がどこだからということではない。私たちも富(と)んでいる国に行くならば、同じことをするかもしれないのである。    

 


◎ 暗誦聖句  マタイ伝一六章二四節
人もし我(われ)に従い来たらんと思わば、己(おのれ)を捨て、己(おの)が 十字架を負(お)いて、我に従え。

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