◆ ロマ書の学び(231)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年四月六日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  聖書の中に、悪人が一〇〇回悪事を重ねてもなお裁(さば)きが来(こ)ないということで、人々は悪に傾く、けれども神様は必ず彼らを裁かれる(伝道之書八章一二、一三節)と書いてある。。

 心の中にある自我、これは何も精神分析の学者が言わなくても、私たちは自分というものを一番かわいがり、大事にしたい、自分の自我を傷つけたくない、と思うものである。特に日本人はメンツを失いたくない、ということがある。メンツを保とうとする。そのことが私たちの生活の中に知らず知らずのうちに、罪を重ねていかせてしまうのである。私たちは悪いことをすれば必ず罪の裁きがあるということを知っている。小さな子供であっても、悪いことをすれば必ず裁かれることを知っている。

 なぜ使徒パウロは、ロマ書の中で全ての人は罪の下にある≠ニいうことを最初に言ったのであろうか。それは創造主である真の神様と私との関係というものを、よく見つめるためであろう。

 しかし、日本人の多くはこう反論する。「ユダヤ人は、神様に選ばれた民として昔からずっと神様からお言葉をいただいてきた。だから彼らは神様を信じることも出来るし、神様を拒むこともできる。でも私たち日本人は、生まれた時からずっと聖書の言葉を聞いたことがない。大きくなるまで聖書そのものさえ見たことがないんだから、神様がどういうお方かといっても信じることができなかったのは当然ではないか。私は神様を知らないんだから、神様から裁かれない」と。

 「キリスト教国ならいざ知らず、日本は仏教国なんだから、仏教の国にあって聖書を云々(うんぬん)と言ったって、それは私の責任ではない。」と言う日本人も多いが、果(は)たしてそうだろうか。

 使徒パウロはロマ書一章一八節以下において、神様が人類に三つの啓示をお与えになったと記している。啓示の一つは、世界に満(み)ちる植物やさまざまな美しい景色(けしき)、あるいは生き物の姿である。私たちはそれらを見て、感動する。何故、多くの日本人は元旦に危険を冒(おか)して山登りをし、富士山頂からの初日(はつひ)の出(で)を見たいと思うのか。そんなことをするよりも、教会にきて神様の御言葉を黙想し、神様を礼拝するほうがはるかにいいと思うのだが…。人間の心の中には、神様がお造りになったこうした世界に感動するという部分がある。これは神様からの一つの啓示である。

 もう一つの啓示は聖書を通して神様が、神様の御心をお教えになっておられるということである。 (続く)

 


◎ 暗誦聖句  マタイ伝一〇章一二節

本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。