◆ ロマ書の学び(235)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年五月四日号
         ▽ み言葉に生きる

 

   曽野氏はかんかんになってレストランを出て、東京に帰ってきてからそれを政府に言ったようである。「私たちは目が悪いからサングラスをかけているのに、それを毛嫌いして出て行かせるとはいったい何ごとですか。」と彼女なりに噛(か)み付いたみたいである。 私たちは人間を肌の色や、体臭、言葉で差別をする。何かにつけて自分たちだけが一番偉(えら)いと思うからそういう差別が出てくるのである。

 使徒パウロは「全ての人は罪を犯(おか)したために神の栄光を受けられなくなった。」と書いている。そこには何の例外もない。肉を食べる人も野菜を食べる人も、どんな食べ物を食べる人であっても差別はなく、みんな神様の前に罪人である。一方、神様はどこの国に生まれ、どのような育ちをした人であっても、誰でも「イエス様、私を救ってください。」と叫びを上げるならば、「救われる」という道を開いてくださったのである。神様の招きは、全ての人に開かれている招きである。

 「助けてください!」となら誰でも言える。小さな子供でも「助けて!」と言えるのである。四つの子供でも、「お父ちゃん助けて」と叫び声をあげることが出来る。 世の中には口をきけない人もいる。でも心配はいらない。心の中で「イエス様。私を救ってください。」とお願いするならば即、神様は救ってくださるからである。けれども、自分たちが呼びかけるイエス様のことを知らなければ、どうして「イエス様。」と呼ぶことができようか、ということがこのロマ書の命題であるのだ。

『全(すべ)て主(しゅ)の御名(みな)を呼び求むる者は救わるべし』とあればなり。されど未(いま)だ信ぜぬ者をいかで呼び求むることをせん。…=@   
             ロマ書一〇章一三、一四節

 まだ信じていないものを、どうして呼び求めることができようか。まだ聞いたことのないものをどうして呼び求めることが出来るだろうか。

 イギリスの作家で、日本に帰化したラフカディオ・ハーン(=小泉八雲(こいずみやくも))という小説家がいた。皆さんご存知だと思うが、この小泉八雲は、さまざまな世界における民話を翻訳したといわれている。その一つに、四国方面の漁師が船を出して漁に出たところ、突然吹いてきた大風に船がゆれ、沈没しそうになった。そのうちに空が掻(か)き曇ってきて恐ろしい台風になりそうであった。船乗りは、もう、どうしようもなくなって、「おー、神様、仏様、阿弥陀(あみだ)様。もうなんでもいいから私を救ってください。」と叫んだと書いている。どんな神様でもいいですから、わたしを助けてください、と。                  ( 続 く )

 


◎ 暗誦聖句 詩篇四九篇九節
霊魂(たましい)をあがなうには費(ついえ)いと多くして此事(このこと)を 永遠(とこしえ)に捨置(すておか)ざるを得(え)ざればなり。

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