◆ ロマ書の学び(237)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年五月一八日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  宣伝うる者なくば、いかで聴くことをせん。遣わさ れずばいかで宣伝うることをせん。『ああ、美しきか な、善き事を告ぐる者の足よ。』<鴻}書一〇章

 スタンダード・オイルの提示金額は、年俸三〇〇万ドルだったそうである。すごい金額である。するとこの宣教師は「いや、私はマネージャーになりません。」「どうして?じゃ、もう少し足しますから。」更に金額をつりあげて、「これでもだめですか。」「はい。わたしはお引き受けできません。」「あなたは一体何が不足なんですか。」「わたしにとってその金額は多すぎるほど多いです。私が不満なのは、スタンダード・オイルの会社の仕事はあまりにも小さすぎます。わたしがおつかえしている神様のお仕事は、もっと大きな、世界に広がる大きな事業です。ですから、この仕事をお引き受けできません。」と言ったのだそうである。

 これはこの宣教師一人の考えではない。多分、どの宣教師もそう思うであろう。自分の仕事は、この小さな習志野だけの仕事ではないのである。世界に通じる大きな、全てのものを創造なさった真の神様の偉大なお仕事の一端なのである。たとえ、私たちはこの小さな習志野という地域にいても、私たちの見るところは習志野の地の果てではない。大久保の果てでもない。私たちの見るところは、世界の果てである。全世界の地の果てにまで目を広げる。牧師だけでなく、皆さん方一人一人の目線が全世界に広がっていかなければならない。なぜならば、「宣べ伝えるものがいなければ、どうして信仰のことを聞くことが出来ようか。」神様のお言葉、そして神様の聖霊と、神様に召しだされた伝道者。この三つの力が合わさって「世界宣教」という働きができるわけである

 ムーディーは「自分が亡くなった時に、私の墓石にこういう風に書いて欲しい。」と言ったそうである。あの有名な世界的な伝道者ドワイト・ムーディーが、どういうことを期待して彼の墓石に刻んで欲しいと思ったのであろうか。私もこれを読んだときに「あっ」と驚いた。彼の願いは、「私の墓石に二本の足をかいて欲しい。」であった。ムーディーは「イエス・キリストの福音を宣べ伝えるものの足は麗(うるわ)しいかな。よきおとずれを告げる者の足はいかに麗しいかな。」という御言葉を願ったのである。私は生涯、イエス・キリストを、あのすばらしい福音を、人々に伝えて歩きたい。そしてこの場所に眠る私ドワイトはそれを生涯果たした人物である。そう覚えられたい、と言ったのである。
     (続く)

 


◎暗誦聖句 詩篇四一篇一節
よわき人をかえりみる者はさいわいなり
   エホバかかるものを禍(わざわ)いの日に助けたまわん

本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。