◆ ロマ書の学び(239)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年六月一日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  ロマ書には、四つの大きなテーマがある。

一、ロマ書一章〜二章
「全ての人が、神の前に罪を犯した人間である。」と いうこと。そこには異邦人もユダヤ人も区別がない。

二、三章〜五章
 「イエス・キリストを信じるならば、どのような罪を 犯した状態にあっても、不信仰、不従順の状態にある 人であっても、イエス・キリストの十字架の上で流さ れた血潮(ちしお)が、私達の罪けがれを洗い清めて下さる。」 という約束。自分の良い行いによらずに、神様がただ の一度も罪を犯した事がない者と同じ様にみなしてく ださり、「義と認められる。」ということである。

三、六章〜八章
 「イエス様を信じる者は心の内側から変(か)えられてくる、新しくされてくる。」ということ。これは自分の努力では出来ない。ただ、神様の御力によって、神様の御言葉によって、私達は日々新しくされ、清められていく、ということが、約束されている。

四、八章以降
 ア、「やがて、私達は栄光の姿に変えられてくる」と
  いう素晴らしい約束を神様から与えられている。
 イ、九章
  「神様の義」という問題について、述べられている。
   神様のお選(えら)びになったイスラエルの人々は神様に
  切り捨てられたのだろうか、という疑問が沸(わ)いてく
  る。しかし、神様は決してイスラエルを永久に切り
  捨てられたのではない。イスラエルの人々の不信仰、
  不従順のゆえに、全世界にイエス・キリストの福音
  が広まるきっかけとなったことが記されている。
 ウ、一〇章
  一〇章の一節〜二〇節においては、これまで神様を
  知らなかった人々、イスラエルの人々以外の世界中
  の民に対して、神様が救いの道を開いておられるこ
  とが述(の)べられている。

 沢山(たくさん)の寄付(きふ)をしたとか、お賽銭(さいせん)を沢山あげたからとか、あるいは滝に打たれたからとか、努力をしたから救われるのではない。「イエス・キリストの十字架の死」による。罪を犯す者は、本来、その人自身が十字架で死ななくてはならない。しかし、私自身の罪けがれのために、イエス様が代(か)わって私の罪を背負(せお)って下さった。イエス様の身代(みが)わりの死によって、私は神様から赦(ゆる)しをいただくことが出来る、ということである。(続く)

 

 


◎ 暗誦聖句 マタイ伝一〇章一二節
人の家(いえ)に入(い)らば 平安を祈れ。

本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。