◆ ロマ書の学び(241)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年六月一五日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  大統領が署名をして「奴隷解放宣言」をした結果、今まで奴隷の立場にあったすべての者の立場が変わり、鎖を解かれ全く自由の身になった。けれども奴隷の状態にあった人々が「奴隷解放宣言」を聞く事がなければ、他の人達が自由であっても、その人々は奴隷の状態で過ごしていくことだろう。

  一方、奴隷を抱える商人達は、一日でも長くその人々を自分の奴隷として自由に使いたいと思ったことであろう。だから、「奴隷解放宣言」という良い知らせは、一人でも多くの人々にいち早く伝えられなければならなかった。

  同じように、イエス・キリストの十字架の救いの福音を聞いた私たちも、少しでも早く、全世界の人々にこの良い知らせを伝える責任があるのである。 ところが、こうした良い知らせも、実はそれを信じない人々が大勢いるのである。誰が信じただろうか。

  されど、みな福音に従いしにはあらず、イザヤ言う『主よ。われらに聞きたる言(こと)を誰か信ぜし。』                 ロマ書一〇章一六節

  皆さんは、始めからイエス様を信じることが出来たであろうか。誰かに「教会にいきませんか。」と誘われて、あるいは婦人達の集会に誘われて、「はい。それでは行きます。」と言って、すぐにおいでになったであろうか。

  ある人達は、非常に素直に単純に「ああ、そういうことですか。」と言って、心を開いてイエス様を信じる決心をする。しかし、多くの場合、人々はそう簡単には信じようとしない。なぜであろうか。 まず第一に、ただで救いが受けられるなんてそんな「良い話」はないだろう、というのである。

  しかし、神様は、旧約聖書のイザヤ書五五章一節に書いてある通りに「ああ、汝ら渇ける者ことごとく水に来たれ。金なき者も来たるべし。汝等来たりて買い求めて食(く)らえ…。」とおっしゃるのだ。

  私たちはそうした神様からの招きのお言葉に対して、人間社会をそのまま当てはめて考えようとする。人間の社会では、何一つただで貰えるものはない。

  全然聞いた事もない会社から沢山、通販のメールが届くことがある。「あれ、どうしてこんなものがくるのだろうか。」と、いうことはないだろうか。クレジットカード等を作った際の顧客リストが市場(しじょう)に出回って、そこから名前、家族構成から種々の情報を入手するらしい。そしてメールをどんどん送ってくるのである。航空会社にマイレージのために名前を書いたら、とんでもないところから、電話料金が安くなりますよと勧誘が来たり、通販のいろんな案内が入ってくる。リストが流れているのだ。私たちは何を信じるのか。(続く)

 

 


◎ 暗誦聖句  イザヤ書五三章六節前半
われらはみな 羊のごとく迷いて 
       おのおの己(おの)が道に 向かいゆけり。

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