◆ ロマ書の学び(246)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年七月二十日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  すべて主(しゅ)の御名(みな)をよび求(もと)むる者(もの)は救(すく)わるべし。
                ロマ書一〇章一三節

  たとえ、四才のちいさな子供でも、自分の心の中に悪い思いがあることを知っている。お母さんに逆(さか)らったり、悪(わる)さをしたり、嘘(うそ)をついたりしているので、四歳にもなれば、子供でも自分の心の中に悪い思い、罪があることをはっきりとわかる。だから、その罪の結果として自分が受けるべき罰(ばつ)をイエス様が身代(みが)わりになって受けて下さった、ということも理解できるのである。

   私たちは時が良くても悪くても、神様の福音をのべ伝(つた)えなくてはいけない。

  『われ従(したが)わずして言い逆(さか)らう民(たみ)に終日(ひねもす)手を伸(の)べたり。』と云(い)えり。
      ロマ書一〇章二一節

   神様は今もなお両手を広げて、イスラエルの民に対して「私のもとに戻って来なさい。」と招(まね)いておられる。

  イスラエルの人々が神様にたいして不従順(ふじゅうじゅん)であったため罰(ばつ)を受けた、と考えがちである。けれども神様の救いというものは、決してそれで終(お)わったのではない。

  しばらくの間は、聖書の長い計画の中では、今は「異邦人の時」である。「異邦人の時」というのは、神様に選ばれていない、ユダヤ人以外の民(たみ)が、イエス様の十字架の福音を聞いて信じることによって救われる期間をさしている。「恵みの時」とも言う。

  いつ、この恵みの時が終わるか誰にもわからない。ちょうど、ノアが箱舟に入ってドアがしまったように、その終わりが来ると、今度はまた「イスラエル人の時」となる。イスラエルの民が本来、全世界に福音をのべ伝えるはずであったのに、不従順だったためにそれをおこなわなかった。そこで神様は、異邦人に対する救(すく)いの門を開いて下さったのである。でも、神様は今もなお、イスラエルの人々を愛してやまないお方(かた)なのである。

  されば我(われ)いう、神はその民を棄(す)て給(たま)いしか、決して 然(しか)らず、我もイスラエル人(びと)にしてアブラハムのすえ ベニヤミンの族(やから)の者なり。=@ ロマ書一一章一節

   はたしてイスラエルの人達、ユダヤ人が今の時代にも救われるのであろうか。 答えはYES(イエス)≠ナある。

  今の時代でも、ユダヤ人も救われる。現に、救われている人達がいるのである。

   私がアメリカで勉強をしていた時、デトロイト市にあったビーチャム・ヴィック博士の教会で、私は一人のユダヤ人の回心者にお会いした。かなり年配のおじいさんであった。                (続く)

 

 


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