◆ ロマ書の学び(248)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年八月一〇日号
         ▽ み言葉に生きる

 

 神様は、心のかたくななユダヤ人に対して、今もなお終日(ひねもす)、手を差し伸べている≠ニおっしゃられるのだ。   

 全(すべ)ての人が福音を聞いて、信じ、クリスチャンになるかというとそうではない。しかし、そこで止まってはいけないのである。がっかりしてはいけないのである。    

 神様が終日(ひねもす)手をさしのべられているように、愛する家族のため、あるいはお友達のために祈り続け、またこの御言(みことば)の約束を通して、一人一人に接していかなければならないと思う。    

 神様は私や皆さんを選(えら)び出し、滅(ほろ)びの中から救って下さった。人を救いに導くということは、時には長い年月が必要である。偉大なムーディー伝道者でさえ、「ある一人の魂(たましい)のため二五年間、一生懸命祈ったが、この魂を導(みちび)けなかった。」と述懐(じゅっかい)している。ムーディー伝道者がこの魂から聞いた最後の言葉は「ツー・レイト!ツー・レイト・・・。」(=もう、遅い。もう、遅い・・・。)で、うめきながら亡(な)くなっていったと書いている。    

 皆さんが証(あかし)をし、一〇〇人に個人伝道をしたとしても、一〇〇人全部が救われるとは思わない。イエス様がお話になった、あの『種(たね)まき』のたとえを思い出してほしい。種(たね)は、四種類の場所に落ちた。{@道端に落ちた種Aいばらの中に落ちた種B石地の上に落ちた種C良く耕(たがや)された地に落ちた種}の四種類である。    

 私たちは伝道する前、これから伝道しようとする魂が、ほんとうに良く耕(たがや)された土地であるように、と祈る。また、私たちが語る言葉がすなおにその人の魂に入(はい)っていくようにと、さまざまな工夫(くふう)をして、結果は主にゆだねて祈る。とりなしの祈りをし、自分で出来る限りの事をして、その人の心がやわらかく耕(たがや)せるように努力(どりょく)をしてゆく。    

 これから半年先(はんとしさき)、あるいは一年後、何人(なんにん)の方(かた)が「神様から、私はこの二人の魂を導(みちび)く機会を与えられました。」あるいは「五人に福音をあかしし、その方たちが救われる機会を得(え)ました。」と話すことができるであろうか。小学生、中学生でも誰かの魂を導くことは出来る。何も大人だけが、救霊(きゅうれい)の使命(しめい)をいただいているわけではない。それぞれが救霊者となる事が出来るように、神様に祈り求めようではないか。    

 牧師や伝道者、宣教師にかぎらず、救われた者一人一人が、神様に選(えら)び出(だ)された大使(たいし)である。魂をすなどる使命をあたえられているということを、再確認し、また、自分だけの救いで満足するのではなく、他の人達の魂が救われるのを見て感謝をし、救霊者としての道を歩むことが出来るよう、ますます励(はげ)もうではないか。


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