◆ ロマ書の学び(249)
神はその民を棄(す)て給いしか。決して然(しか)らず。 以前、牧師館と教会の庭には、実(み)のなる木がいくつかあった。柿の木もその一つで、道路に面した側に実をつける木であった。実が大きくなり色づくのを毎年楽しみにしていたものである。時には、子供達の歯形(はがた)がついた実もあったが、教会で取ったら神様に怒られると思ったのか取られてはいなかった。 「桃、栗三年。柿、八年。」というが、我が家(や)の柿の木は、そんなに待たずとも実を早くからつけ始めた。その木は根元から四、五十センチのところが太く、それから上が細く、明らかにこれは渋柿に甘柿を接木(つぎき)していた。接木をすることによって、その木は、より良い実をならせることが出来るのである。 そのことを使徒パウロは、オリーブの木にたとえて、ここでのべている。野生のオリーブと手をかけたオリーブを接木する。
もしオリブの幾許(いくばく)の枝(えだ)切り落とされて、野(の)のオリブなる汝その中(うち)に接(つ)がれ、共にその樹(き)の液汁(うるおい)ある根に與(あずか)らば、かの枝に対(むか)いて誇(ほこ)るな、たとい誇るとも汝は根を支(ささ)えず、根は反(かえ)って汝を支うるなり。 イスラエルという特別の民が、神様の御心(みこころ)を全世界に告(つ)げ知らせ、さらに神様のみ栄(さか)えをあらわすようにと神様に選(えら)ばれた。しかし、彼らは失敗(しっぱい)した。そこでユダヤ人ではない、神様に選ばれていない「異邦人(いほうじん)」である私達が、接木をされた。そして旧約聖書からずっと約束されているその預言の働きに加えられてきたのである。 私達は接木をされた状態であるわけだから、言ってみれば根(ね)っこはない。イスラエルという神様に選ばれた民の上に乗(の)っかって育(そだ)っているのにすぎない。そういう意味で、自分が立派(りっぱ)な実をならせたからといって、一番の元(もと)木に「お前は何も実が無いじゃないか。」と言うことはできない。 かえってイスラエルの人々が、神様に敵対行為(てきたいこうい)を繰(く)り返し、不信仰な行為を繰り返していたゆえに、神様は使徒パウロを通し、全世界の異邦人(いほうじん)に福音を伝えて下さったのである。しかし、その「異邦人時代」「恵みによって救われる≠ニいう時代」は、いつまでも続(つづ)くものではない、と書かれている。 私達には、神様の時計がどこで正午(しょうご)を打つかわからない。確かに今は「恵みの時」「救いの日」であり、「異邦人の時代」なのである。 (続く)
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