◆ ロマ書の学び(250)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年八月三一日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  ロマ書に出てくる「恵みの時」「異邦人の時代」とは、ユダヤ人以外の世界中の人々が、イエス様の福音を聞いて十字架を仰(あお)ぎ見るなら救われる、という道が開かれた時代である。

  しかし、その時代も必ず終(お)りが来る。そして、これまで、いかにも捨(す)てられたような感じに見えるイスラエルの人々が、今度(こんど)は世界の中心的な働(はたら)きをするようになってくる。その時までに救(すく)われた異邦人(いほうじん)は、天(てん)にたずさえ上(あ)げられていく、「預言(よげん)の時代(じだい)」に入(はい)っていくわけだ。

  ロマ書一一章は大変むずかしい箇所だ。

  福音(ふくいん)につきて言えば汝等のために彼らは敵(てき)とせられ、選(えら)びにつきて言えば、先祖(せんぞ)たちのために彼らは愛せらるるなり。それ神の賜物(たまもの)と召(め)しとは変(か)わることなし。汝ら前(さき)には神に従わざりしが、今は彼らの不順によりて憐(あわれ)れまれたる如(ごと)く、彼らも汝らの受くる憐憫(あわれみ)によりて憐れまれんために今は従わざるなり。神は凡(すべ)ての人をあわれまんために凡(すべ)の人を不順(ふじゅん)の中(うち)に取籠(とりこ)め給いたり。ああ神の智慧(ちえ)と知識との富(とみ)は深いかな、その審判(さばき)は測(はか)り難(がた)く、その途(みち)は尋(たず)ね難(がた)し。=@   
   ロマ書一一章二八節〜三三節

  一一章一節から一〇節においては「恵みによる選び」ということが記されている。しかし、異邦人の私達が神様によって選び出され、救いを受けたからといって、イスラエルの人々が捨てられたか、というとそうではない。

  一一節から二四節においては「では、異邦人がユダヤ人の上に立って自慢(じまん)をすることができるか?」との問いが出てくる。とんでもない、そんなことはありえないことである。

  イスラエルの民すべてが、滅(ほろ)びに至(いた)るわけではない。神様はイスラエルの民の中に「レムナント」(=「残された民」という意味)をお持ちである。

  旧約聖書の列王記略上一九章一八節には、神様の預言者がバアルの預言者達とカルメル山で戦った後、神様にイスラエルを訴えたことが書かれている。神様の預言者エリヤが「神様の側に立つ者は自分一人だけ。」と思った時にも、神様はちゃんと七千人を確保なさっていた、という記述である。その出来事がこの一一章に出てくる。 神様は、イスラエルの不信仰な者達の中からもなお、まことの救い主、イエス・キリストを信じる人たちを選んで救って下さっている、というのだ。いつまでもイスラエルの人々は外に出されているわけではない。(続)

 


◎ 暗誦聖句 使徒行伝八章三五節

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