◆ ロマ書の学び(251)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年九月七日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  言(い)い換(か)えるなら、パウロは「もしイスラエルの人々が従順(じゅうじゅん)に神様に従(したが)っているならば、あなた達はまだ、神様の救いにあずかっていないかもしれない。自分で自慢してはいけない。」と言っているのである。

  もちろん歴史を仮定形で語(かた)ることはできない。しかし、ここでは、イスラエルの人々が不従順であったゆえに、「信仰によって救われる」という道が開かれたと言っている。なぜなら、旧約聖書の教えは「良い行(おこな)いによって救(すく)われる」であることを覚(おぼ)えて頂(いただ)きたい。

  旧約聖書の教えは、人間が義(ぎ)とされるためには、正(ただ)しい行(おこな)い、神様の律法(りっぽう)を一〇〇パーセント守(まも)ることによって神様の前に義とされなければならない、であった。しかし、人間は誰(だれ)ひとり、この地上の生活にあって一度も律法を破(やぶ)ることがない、ということはありえない。

  つまり、人間は自分の努力(どりょく)や良(よ)い行(おこな)いによって救われることは不可能である、ということだ。神様はそこで、ご自身の側(がわ)から犠牲(ぎせい)を払(はら)って下(くだ)さり、イエス様をこの地上にお遣(つか)わし下さった。神様がくださる救い、イエス・キリストの十字架を見て、「ああ、イエス様の十字架の血は私のためでした。」と、私達が信じ、神様に救いを求(もと)めるならば、何も良いことをしなくても、献金(けんきん)をしなくても、ただ「イエス様、私を憐(あわ)れんで下さい。」と求めるならば救われるという道、これが新(あたら)しい契約(けいやく)であり、新約となるわけだ。

  行いによって神様に祝福をいただこうとするのは、古い契約だからこれが旧約(きゅうやく)。その古い契約について書かれたのが旧約聖書であり、信仰によって救われるという新しい契約について書かれたから新約聖書になる。自分の努力によって神様に喜(よろこ)ばれようとするか、それとも、イエス様がなし終(お)えて下さった十字架を見上げることによって私達が神様に近づくことができるか、全く相容(あいい)れない両岸である。私達が信仰によって神様の救いを頂(いただ)くなら、旧約聖書におけるアブラハムと同じ信仰の系図(けいづ)になるとパウロは言っている。そういう意味で、私達は信仰の父、信仰の勇者アブラハムの子孫(しそん)であると言える。

  ロマ書一一章三三節にああ神の智慧(ちえ)と知識との富は深いかな、その審判(さばき)は測(はか)り難(がた)く、その途(みち)は尋(たず)ね難(がた)し。≠ニある。旧約聖書のイザヤ書五五章にも神様の思いは人の思いと異(こと)なり≠ニ、書かれている。人間の常識、人間のたて上げた学問、宗教、哲学(てつがく)、そうしたものをはるかに超(こ)えて、むしろそういうものを蹴散(けち)らして、神様は「私の智慧(ちえ)」「摂理(せつり)」と、おっしゃる。このことは新約聖書のコリント人への手紙の中でも繰(く)り返(かえ)し教(おし)えている。一章を見ると、この世の知者は、自分の知恵で神を見出(みいだ)すことは出来なかった。≠ニ書いている。この世の人々が考える時に、十字架の福音は愚(おろ)かに見える。                   (続く)

 


◎ 暗誦聖句 使徒行伝一六章三一節 
主イエスを信ぜよ。さらば汝も汝の家族も救われん。

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