◆ ロマ書の学び(252)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年九月一四日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  この世の人々が考える時に、十字架の福音は愚(おろ)かに見える。「ただイエス様の十字架を見上(みあ)げるだけでいいのですか。そんな簡単(かんたん)なことで救(すく)われるんですか?」との人間の問(と)いに、神様(かみさま)は「そうです。」と、おっしゃる。 十字架を見上げることによって救われるということは、小さな子供でも理解できる。ここに神様の深い知恵と御心(みこころ)があると教えている。

  イスラエルの民は今、一時的に神様から離(はな)れている。もちろんイスラエルの人達は、そんなことを聞いたら怒るだろう。「私達は真剣(しんけん)に、命(いのち)がけで神様を信じている。」と言うだろう。しかし、その神様のお言葉に約束されたメシヤであるイエス・キリストを拒(こば)んでいる。だから彼らは、いまだに世界中からバッシングを受けている。早くイスラエルの民(たみ)が目を覚(さ)まし、真の神様であるイエス・キリストの前にひざまづくことを私達は祈らなければならない。それがクリスチャンである私達に与えられた責任の一つである。神様は決して、すべてのイスラエルの民を拒まれたのではない。「レムナント」(=残された民)を持っていらっしゃる、と同時に、イスラエルの反逆、不信仰は一時的なものであるということだ。

  パウロは、ロマ書一一章二八節〜二九節において、神様がいかにイスラエルの民と異邦人を扱(あつか)っていらっしゃるかを教えている。聖書を見ると、ロマ書三章二三節にすべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている。≠ニ書かれている。すべての人≠ニいうことは、イスラエルの人々、ユダヤ人をはじめ異邦人である私達すべての民族、あらゆる人々(ひとびと)を含(ふく)んでいる。すべての人は罪(つみ)を犯(おか)したため、神の栄光(えいこう)を受(う)けられなくなっている。

  きれいな花を見た時、きれいだと思い、もっとよく見ようと近づくと、甘い良い香(かお)りがする。「誰がこんなすばらしいものを造(つく)ったんだろう?」と、思われるだろう。でもこれは、完璧(かんぺき)な姿ではないと聖書に書かれている。神様によって造(つく)られたすべての被造物(ひぞうぶつ)は、今に至(いた)るまで神様の「天地(てんち)再(さい)創造(そうぞう)の時(とき)」を待ち望(のぞ)んでいる。

  アダムとエバが罪を犯したために、地上のあらゆるものがその罪の汚れ、呪(のろ)いの中にある。天国において私達が見ることができるのは、この花の美しさどころではない。黙示録を見ると、十二ヶ月の間、次々と果物などの美しい花が咲き誇(ほこ)ると書いてある。聖歌に『まもなくかなたの流れのそばで』という曲があるが、あの歌以上のもっとすばらしい祝福が待ち受けている。(続く)

 

 


◎ 暗誦聖句 マタイ一〇章一六節後半

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