◆ ロマ書の学び(253)

        習志野バプテスト教会週報
         二〇〇八年九月二一日号
         ▽ み言葉に生きる

 

  天の御国(みくに)では、普段(ふだん)私達が見(み)向(む)きもしないような花でさえ、すばらしい香(かお)りを放(はな)ち、神様の御栄(みさか)えをあらわす。 ロマ書一一章三三節から三六節において、使徒パウロが、心を抑(おさ)えることが出来ないような神様への賛歌(さんか)をうたいあげている。

  これ凡(すべ)ての物は神より出(い)で神によりて成(な)り、神に帰(き)すればなり、栄光とこしえに神にあれ、アーメン=@

  私は、この一一章を読み、「むずかしいなあ、どうやって皆さんとこの章を勉強したらよいだろうか。」と悩んでいた。読んで、読んで、散歩をしながらも「使徒パウロが言わんとした事は何だろうか。」と、考えていた。そして、「この箇所(かしょ)だな。」と、思うに至(いた)った。凡(すべ)ての物は神より出(い)で、神によりて成(な)り、神に帰(き)すればなり。≠ナある。あらゆる被造物(ひぞうぶつ)の目的(もくてき)、それは神様の永遠の目的達成のために造(つく)られたものである。

  なぜ、これが私の心(こころ)を強(つよ)く打(う)ったのか。なぜ、皆さんに、この聖句を強調(きょうちょう)しなければならないのか。それは、クリスチャンの信仰が、あまりにも自己中心的(じこちゅうしんてき)であるからだ。クリスチャンがあまりにも身勝手(みがって)なのである。

  私達の信仰は、「私」のためではない。「私がこの地上にあって恵(めぐ)まれていればいいじゃないか。」そうではないのである。あなたの信仰は、習志野バプテスト教会のためとか、あなた自身のためではない。あなたの将来の結婚生活のためでもなければ、事業のためとかでもない。

  私達の生活の目標(もくひょう)は、創造主である神様の栄光をあらわすためである。神様の御栄(みさか)えを拝(はい)するために、私達は造(つく)られ、草花も造られた。人間が楽しむためではない。

  御栄(みさか)えをあらわすために、神様は私達をお造りになった。あらゆる目的、神様の天地創造の目的、そして現在も神様が働(はたら)いておられるのは、創造主のみわざが明(あき)らかにされ、すべての造られたものが神様をほめたたえるためである。そのために、私もあなたも救われたのである。「病気が治(なお)るから教会に行って祈(いの)ろう。」ではない。それも大事だが、ほんの一部分だ。もっと大事なのは、例(たと)え病気であろうと障害(しょうがい)を負(お)っていようと、言葉がわからなくても、「私は神様によって生(い)かされ、神様の御栄(みさか)えをあらわすのだ。」という気持ちだ。

  私達は何のために造られたのだろうか。すべて食べるにも、飲むにも…自分の健康のためではない。ヘルシー・フードのためではない。すべて食べるにも、飲むにも、神の栄光をあらわすようにせよ。≠ニ、パウロは書いている。私達の人生の目的は何だろうか。私の趣味(しゅみ)を達成(たっせい)するためだろうか。私の収入を豊(ゆた)かにするために信仰を持つのだろうか。そうではない。あなたの人生は神様の御栄(みさか)えをあらわすため、そのためにあなたは生(い)かされているのだ。               (続く)

 


◎ 暗誦聖句 マタイ伝一〇章二二節後半

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